 |
プロフィールトップにもどる
関はじめ「空挺レンジャー課程の思い出」を語る
関はじめ は防衛庁文官のなかで唯一空挺レンジャー課程の終了経験者です。この記事は陸上自衛隊空挺団関係者の機関紙 "落下傘" に投稿し掲載されたものです。
空挺レンジャー課程の思い出 (1)
【いきさつ】
私は、昭和39年防衛庁内局に入りましたが、これでも第9期空挺レンジャーです。採用の面接で三輪官房長(その後、事務次官)にぜひと条件のようにお願いしたところ快諾されました。これから防衛行政に携わることになりますが、仕事はデスク・ワークです。一度、自衛隊の第一線の訓練を経験したいという理由でした。実はその外、私は学生時代合気道をやっており、体力には自信がありました。自分の肉体の限界を試したいとの気もあったのです。
入庁し防衛局第一課に配属されましたが、行かせてくれる気配がない。仕事には関係ない、問題外といった感じでした。そこで次官に就任されていた三輪さんに直訴し、入校出来ました。
一昨年でしたか、隊友紙に「戦前世代の持つトラウマとその弊害」という文章を投稿しました。戦前世代の人達が、旧軍に対して原体験として持つ個人的な狭い経験と反感から、単純にテロ特措法の自衛隊の任務拡大に反対を言うのを批判しました。政治家であれば、個人的原体験からではなく、国家がその機関である自衛隊を如何に管理し、使うかを大局的見地から判断すべきだというものでした。それを読んで当時の教官江藤高義さんが手紙を下さり、シルバー・レンジャーの会があることを教えて下さいました。早速入会し、久しぶりの方々ともお目にかかりました。そして空挺同志会にも入会させて頂きました。空挺レンジャーといっても、レンジャー課程のみの修了者です。空挺同志会に入れて頂くのは、おこがましいかもしれませんが。
当時空挺団は、教育隊長は三谷一佐、学生隊長は坪井三佐でした。S−3は花山さんでした。奇遇でしたが、花山さんは私の高校のしかも水泳部の先輩でした。部隊訓練中、朝の体育でお目にかかるぐらいでしたが、なんとなく有名な人のようでした。
懐かしいレンジャー課程の失敗談などを思い出し、少々書いてみたいと思います。
【まず経験】
課程に入りまず苦労したのが、空挺靴を磨くことです。先をピカピカに光らすのが空挺の伝統と言われ苦労しました。半長靴も履いたことがないのですから。最後に水を少々使うとよいと教わった気がします。先日久しぶりに空挺団を訪問し、営門でそのことを思い出して隊員の靴に目が行きました。先はピカピカでした。何か納得した気分になりました。
当時はM1ライフルを持たされたと思いますが、まず分解結合を教わりました。一度の教育では身に付くはずもなく、教官の特別のご配慮で、夜間、教育を受けました。一応覚えた気になりましたが、行動訓練の後は疲れて結合が分からなくなったり、まして夜間の結合は難しい。石橋三曹やその外親しくしていた方々が手を貸してくれました。実際、同期の皆さんの手助けがあって、落ちこぼれずに課程を修了出来たと思います。
合気道の合宿の経験はありますが、時間で管理された団体生活は初めてです。することが遅くマイペースで、これを集団生活に合わせるのが最初の努力だったかもしれません。新隊員と同じですから。
最初戸惑ったのが、個人で走るのと集団で走る違いです。団体で走るとペースが自分のものと違い困りました。遅くても疲れます。ところが集団のペースに乗って走ることが分かると、かえって楽に走れることを知りました。後になって行動訓練の時、疲れきっていても団体で引っ張ってもらう感じで走れることを知りました。
妙な経験を一つ。習志野での部隊訓練の間のことです。朝、胸の上が重く、あやしげな夢を見て目が覚めました。冬でしたが、ぼんやりと明るくなっていました。ふと胸の上を見ると胸の毛布の上に犬の足跡が残っています。その足跡は開いたドアの方に向かっていました。入り口のドアは閉まっていた筈、おかしいなと思いました。 当時のこと、窓ガラスが一つか二つ破れたままでした。そこから犬が入ったのかなと変に納得し、起床時間まで間があるのが惜しく、すぐまた寝入ったのを覚えています。
|