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2001年7月
集団的自衛権を認め、アジアの平和と繁栄を築け(MOKU(黙)7月号)
 日本を漂う閉塞感は、本当にこの十年間の不況が原因なのだろうか? 戦後、わが国の目標は経済成長一辺倒であったが、経済はあくまで経済であり、人間の精神の目標にはならない。閉塞感の本当の原因は、経済でさえも国際的に通用しなくなり、国際社会に対して胸を張れるもの――すべてにおける自信を失ってしまったからではないのだろうか。
 その自身のなさを象徴しているのが国防問題である。国の基本中の基本である防衛を外国に頼り、自虐思考で自らを縛り、少しでも「軍」の香りがするたびに「反動」と叫ぶ"知識人"までいた。しかし、イデオロギーの呪縛はもういらない! いまこそ、国際的にダイナミックな目標を求めるときではないのだろうか。国際社会に対して、自身で選択し、実行する意思と組織をつくるべきでは――国際国家日本への一石が、いま投じられる。

●わが国が失った視点

 戦後、わが国は国際社会の基本的な視点を失なった。国際社会というものは、表面に現れなくとも、軍事力を抜きにしてはなにも考えられない。国際政治の裏側には必ず「暴力」がある。国内政治の「法の支配」に、「警察力という暴力」があるように、各国間の条約はあっても「法」のない国際社会では、なおさら「軍事力というおおき9暴力」が必要なのである。しかし、日本人は平和の呪縛に毒され、この視点を失っている。
 平和とは、本来二重構造の言葉である。平和という言葉は抽象概念で、「××の平和」という言い方をしてこそ具体概念となる。「共産主義の中での平和」、「民主主義の中での平和」など、いかなる状況下での平和を望むかが現実の問題であり、自分の望む「××の平和」を大切にし、それを、場合によっては暴力を使ってでも守ることが必要となる。
 戦後、国民が平和を求めたことは当然であり、平和が大切なことは言うまでもない。しかしわが国では、抽象概念の平和が、平和そのもののように思われている。少し軍事の匂いがしただけでも、「危険」と大げさに騒ぐ。
 その原因として、社会主義勢力による平和闘争などがあげられよう。更にそして日本人が日本人として先の大戦の総括をせず、米軍によるギルティ・コンプレックスの植付け、つまり極東軍事裁判(東京裁判)の結果を鵜呑みにし、自らの歴史観を確立しなかったことも大きい。確かに旧日本軍は政治的にも軍事的にも多くの間違いをおかした。しかし、その行動を自ら分析し、いいところもあったが悪いところもあったとはっきりさせなければならないのに、アメリカの言い分のみを是とし、日本国としてその歴史を総括していないのである。
 さらに言えば、戦後の日本人が抽象的平和の呪縛にとり込められ、国際社会の現実を見失い、国益の視点を失った大きな理由の一つに、わが国に軍隊が存在しなかったことがあるのではないだろうか。
 自衛隊は軍隊ではない。戦車や戦闘機があっても軍隊ではない。国際的にも国内的にも、軍隊としての権利・義務をもたされていないために、突発的な小さな事件が起きても、国際常識的な対応はできない組織なのである。それは、安全保障のために必要な国際的常識に従った議論が一度もされてこなかったからである。

●国際法上の自衛権と国内法による縛り

 自衛隊もかたちだけは軍隊で、非常時には外国を相手に非常時の行動が要求される。ところがおかしなことに、自衛隊の行動原理の中に、国内法の原則に基づいているものがある。
 例えば、航空自衛隊の領空侵犯に対する措置は、正当防衛の要件が満たされなければ実弾射撃をすることができない。外国の軍用機が、理由も鮮明にせずにわが国の領空内に進入してきたとき、通常、航空自衛隊の戦闘機二機がスクランブルに飛び立つ。自衛隊機は領空から出るように合図を送り、さらに信号射撃もする。しかし一切応答が無く、こちらの警告を無視され続けたとしても、国内刑法の正当防衛を射撃の根拠としている自衛隊機はなにもできない。自衛隊機が実弾射撃できるのは、相手が実弾射撃してきた後である。今日の射撃精度からいって、二機の自衛隊機のうち、少なくとも一機は撃墜される可能性が大きい……。
 対立状態にある国の軍用機が侵入してきた時でも、こちらから先に実弾射撃するかどうかを判断するのは、実際問題としては難しい。そのときどきの国際情勢上の判断が必要でパイロットだけで判断できる問題ではないであろう。しかし法的に、パイロットの行動は国際法上の問題なのに、国内刑法の発想により行動の基準が規定されていることを、私は問題としたいのである。
 国会で自衛隊の行動規範が問題とされるときも同じ議論となる。PKO派遣では当初、武器の使用は個人の正当防衛に限られていた。今日改められたが、自衛隊が攻撃された場合、対応を隊長の判断にせず、個人の正当防衛権にするのは全くおかしい。自衛隊の隊員は一人で行動しているときでも、仕事ならばその存在は個人ではなく、国の機関の行動であり、個人に対する法理が適用されるのは間違っている。
 国際法上の自衛権行使の要件に、国内法上の正当防衛の理論を援用する学説はあろうが、それはあくまで解釈上の援用である。国際法上の自衛権はあくまで国家の行動に関するものであり、国家の機関の行動の根拠は国内法上の個人に対する法理とは異なるべきなのである。
 日本は防衛上の必要を考えずに航空機や戦車をそろえ、それで安心している。そのことにより自衛隊そのものにも問題が多いし、国民自身もまともに安全保障を考えなくなっている。それどころか「自衛隊を動かすことは平和に反する」「自衛隊は平和の敵で悪だ」という思考さえもってしまっている。

●政治にもてあそばれる自衛隊

 昭和五十一年「防衛計画の大綱について」が閣議決定された。これは、第四次防衛力整備五カ年計画が終了し、次期防衛力整備計画を策定しようとする際の与野党の対立から生まれた。防衛当局はそれまでの計画は規模が小さすぎて防衛力整備の意味が説明できなかったとして、わが国の経済力が大きくなったのに伴い、なんのために計画をするのかを説明できるものを作成しようとした。しかし野党の反対で妥協し、出来上がった防衛計画の大綱は矛盾の集大成となった。この大綱は当時の自衛隊が保有していた装備を、量の面で凍結・固定化し、それに意味があるような説明をしている。軍事力とは、目的があって整備されるべきものであって、量的にも質的にも相対的なものである。銃に対して刀では対抗できないし、相手の数量に対抗するにはそれなりの数量が必要である。
 大綱には多くの問題があるが、それをいちいち取り上げても意味が無い。実情を一つ指摘すれば充分であろう。大綱策定後の十年間に、極東ソ連軍は先端的装備の充実と共に、兵力量も大幅に増強した。しかし大綱では自衛隊の装備の数量は固定されたままで、相手の増強に対応しようとする努力は、装備の改善だけであった。しかも戦闘に必要な弾薬等の備蓄など地味な努力は軽視された。自衛隊の装備を皮肉った「たまに撃つ 弾がないのが たまにきず」という哀しい川柳がある。
 自衛隊の装備目標は、数量が規定以下になると規定数に達するよう努力することとなった。米国依存の安心感があったのだろうが、これこそ軍事思想の思考停止であり、相手との相対的関係で考えるべき軍事的発想が失われてしまった。これでは戦略的発想など成立できないのだが、これが日本の「シビリアン・コントロール」なのである。
 野党だけを問題にしているのではない。
 冷戦終結後の一九九五年、竹下登氏の刊行した『竹下登 平成経済ゼミナール』に驚くべき記述がある。「五十五年体制が続いておったのは、やっぱり東西両陣営対立の下で自民党と社会党が上手に役割分担してやっておったからでね。外交の面でも、内政の面でもね。いい言葉で言えば役割分担。悪く言えば二刀流の使い手のようにも言えるが……」。
 そして解説に「米国の圧力に対しては自民党が社会党の抵抗を口実にし、東側に対しては社会党が自民党の米国よりを口実にする使い分けが、日本のカメレオン的処世術だったという考えである」
 まさか日本の米国との関係と、東側とが実際にこのようであったとは考えられないが、後知恵にせよ、日本の首相であった人がこのようなことを言うとは! なにかが狂っているとしか考えられない。冷戦は、米ソが熱い戦争以外のあらゆる手段を使って生きるか死ぬかの戦いをし、米国は勝利して、負けたソ連は崩壊した。この現実を認識しない人たちがわが国を運営していたのだ。
 冷戦中、私も政府部内で「自衛隊に金をつけるのは米国との付き合い上にすぎない」というあからさまな発言を聞いたことがある。政府部内でも防衛が国際社会で現実に必要であることの認識が全くなかったことを物語っている。
 防衛計画の大綱はその後改訂されたが、考え方の基本はいまも変わっていない。

●つぎはぎだらけの防衛理論

 平成6年(1994)、総理の私的諮問機関「防衛問題懇談会」の報告書が樋口康太郎座長のもとで提出された。これは私的とはいえ冷戦終了後、防衛計画の大綱とは別に、総理に提出されたという意味で公的な唯一の報告書なのだが、ここでも軍事に対する理解が国際的常識からまったく外れている。
 例えば、国際情勢の見方では、経済・技術的に世界はますます相互依存的になっているという。これはよいとして、そのため局地的紛争であっても、紛争が国際社会全体に波及しやすい構造となっているという。これは誤りである。
 米ソの直接対決が無くなれば、紛争が世界全体に波及する可能性は低くなり、そのため逆に小さな戦争は起こりやすくなっているというのが通常の認識であろう。広く波及しないのは各国の軍備がそれなりに役立っているからで、カンボジア問題一つを取っても、ポルポト派の軍隊がタイに侵入できなかったのは、タイの軍隊の存在があったからではないのか。
 また、同報告書は、多角的安全保障協力の必要を述べ、能動的秩序形成者として行動すべきとしている。しかし秩序とはいかなる秩序なのか? 米国流民主主義なのか、別のなんなのかという理念が必要である。いまの日本にそのような理念を主張することができるのか。
 そして日本の安全保障の重要な柱が平和維持部隊への自衛隊の参加であるとしている。これは、わが国の周辺地域の場合ではそう言えなくもないが、基本的に間違っている。現在ゴラン高原に自衛隊を派遣しているのだが、わが国の安全保障とどんな関係があるのだろう。
 しかもわが国の周辺地域であっても、紛争終結のため武力をもって介入するというのなら理解できるが、紛争終結後に部隊を送り平和維持を図るだけでは、安全保障の重要な柱とは言えない。
 僅かを取り上げただけでも、軍事と関係ない議論がまかり通っていると判断できよう。これは、いまの日本の軍事に対する考えがどんなものかを表している。報告書は最後に自衛隊の装備の削減を主張しているが、これは報告書のそれまでの議論の展開となんの関係も無い。
 防衛計画の大綱は、冷戦中にもかかわらず「敵を考慮しない」というおかしな発想で作成され続けた。したがって冷戦が終了したからといって、論理的にはそれを装備削減の理由とはできない。しかしソ連崩壊後の欧米諸国は軍の削減を行なったため、わが国も「削減をしなければならない」という至上命題が先にあり、報告書が作成されたとしか思えない。

●組織としての自衛隊

 警察予備隊から保安隊を経て自衛隊が創設されたとき、なぜ中途半端な自衛隊でなく、はっきりと「軍隊」にしなかったのだろうか。私は自衛隊を軍隊としなかった当時の政治指導者の見識の根本を疑う。憲法学説のほとんどは、「自衛隊は違憲」としたぐらいであったのを、無理矢理合憲として自衛隊を創設したのであるから、軍隊とすることも可能であったろう。当時の日本経済の状態から、軍事支出を小さくしようとすることは、政策として適切であったろう。しかし支出を少なくすることと、組織をあるべき姿として建設することとは別だ。
 軍隊とするのか、しないのかには決定的な差がある。組織には、組織建設の基本理念が大切で、これを欠かして建前と本音の使い分けで運用していくのでは、どうしてもうまくいかなくなるところが生じる。それがいかに小さな問題であっても、組織にとって基本的問題である限り、組織が本来の目的通りに機能するかどうかの分かれ目となる。自衛隊を憲法72条の一般行政各部の内部に位置づけたのが間違っているのだ。72条は、例外として一般行政各部から独立した機関の設置を禁じてはいないのだから。
 総理大臣の指揮権についても、根本的問題がある。自衛隊法7条は「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮権を有する」としている。「内閣を代表して」とは通常「閣議によるもの」とされ、閣議は全員一致の原則がある。これでは、戦争のみならず災害などの場合であっても、総理大臣の敏速な決断を求めることが出来るのだろうか。
 自衛隊の管理には、政治優先の原則が基本であることは言うまでもない。しかし管理のあり方は平和時と有事では異なる。自衛隊の運用についても、閣議にはかる必要のある場合もあろう。しかし最高指揮官の有事における指揮権は個人(総理大臣)に帰属させるのが世界の常識である。
 保安大学校として始まった防衛大学校に当時の吉田茂総理が来て、「やがて軍隊とする」と学生の前で演説したという。「吉田茂に騙された」といまでも言う人がいる。吉田茂は戦前の軍の横暴を恐れ、旧軍人の影響力がなくなったら軍隊にすると考えていたという話もある。
 戦前、軍の横暴が、政府の判断と行動を著しく歪めたのは事実だが、それは当時の制度と運用に誤りがあったからだ。戦後、制度は変わっており、運用上も政治家が旧軍人の動きを止めることは可能なのだから、吉田茂の話が本当なら、恐怖感がそこまで残っていたのか……あまりに軽い。
 自衛隊は「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的」とし、防衛と警備が仕事であり、外国の侵略に対する「有事」が仕事の主要な対象である。平和時が仕事の対象である通常の官庁とは、国内外の仕事に対する考え方が、まったく異なる。
 平和時においても、万一の有事に対する備えはして置かねばならないが、それをどの程度まで行うかは状況次第であり、本来ならば有事を考える防衛と平和時の諸官庁との調整が行われ、それに差があればそのどちらを取るかは、政治の判断であろう。
 しかし実際には、有事のための配慮や調整が行われることはまったくない。例えば専守防衛で国土防衛しか考えられていない以上、道路、港湾、鉄道、空港等の建設において、有事のときの配慮が防衛庁との調整により行われるのが当たり前に思えるが、そのような調整はまったく行われていない。
 有事法制は主として部隊の運用に関する国内法の整備の問題だが、それ以前に、自衛隊の戦車や航空機がいざという時にそれらの施設を使えるようには設計されていないのだ。自衛隊は、国内でフルに活動することが出来ないようになっていて、防衛庁にはそのような調整を行う権限がなく、諸官庁はそのような配慮を考えていない。更に、防衛庁は後発官庁であることもあって、本来防衛庁の所管すべき事項でも、他省庁の所管となっている。現在「防衛省」の議論もされているが、省昇格を行うなら、せめて所管事項の是正をなすべきだ。
 また、有事に国民をどうするかがまったくわからないまま、自衛隊は図上演習をしなければならない。日本は専守防衛を選んだ。すなわち日本は自らの国土を戦場にして戦うことを前提にしている。しかし演習においては、国民の存在をゼロと想定している。
 有事のための軍隊と、平時のための官庁では、命令の性質も人に対する処遇の考え方も違っている。ところが自衛隊は平時の一般官庁と同じ扱いなので、処遇なども基本的に同じである。
 やや古い話しであるが、ある将補(少将)が語ったことがある。米国に出張し、陸軍の施設を見学してまわった最後の夜、エスコート・オフィサーから「二人で飲みませんか。」と言われ、「いいね。おごるよ」と言ったところ、エスコート・オフィサーは「いいんです。将軍はファースト・クラスに乗られると思って私にもファースト・クラスの旅費が支給されていたのですが、将軍は一般の席を利用されましたので旅費が余っているのです。」と答えたという。
 階級差の厳しい組織の中に生きる者として、この将補は屈辱を味わったに違いない。私も日本人として恥かしく思う。
 軍隊とは、有事においては生命の危険を犯してでも任務を遂行しなければならない組織であり、個人が公のために身を捧げる最もシンボリックな存在である。そのような存在としての敬意が、自衛隊に払われていない。軍人は、有事になれば命を捨てることが要求される。差し迫ったときに、部下の前で恥ずかしくない行動がとれるのか?戦前の軍隊でも若い将校はそのことに悩み、精神修養を心がける人が多かった。その為には自衛隊員一人ひとりに、名誉を保てるよう処遇する必要がある。

●仮想敵国としての中国

 基盤的防衛力のところで、防衛力の整備は本来相対的なものであると述べた。これは仮想敵国の考えとも関係する。
 仮想敵国(Hypothetical Enemy)とは、仮想(Hypothetical)なのだから、その国を政治的・外交的に敵視することではなく、また、仮想敵国を公表する必要もない。その国が万一敵対的軍事行動をとるときに備え、防衛力の整備をするものである。
 国会で「わが国に仮想敵国はあるか」との質問に、事実として自衛隊はソ連を対象としていたにもかかわらず、ないとの答弁が行われた。これも平和主義の行き過ぎであろう。
 昭和五十年代になり、当時防衛参事官(外務省から出向中)であった岡崎久彦氏が国会答弁で、「潜在的敵国」という言葉を使い、なんの異論も無くまかり通った。潜在敵国と仮想敵国とはどう違うのか?いかに国会といえども、当時わが国の防衛がソ連を対象としている現実を無視する幻想を維持することはできなかったのであろう。結果として、この答弁の意義は大きかった。
 現在、中国は軍事費を拡大し、軍の近代化を図っている。核兵器も開発・装備している。しかも、周辺諸国との紛争に軍事力を実際に簡単に行使しているし、行使を公言もしている。
 現在の海上自衛隊は、戦えば中国艦隊を問題としないであろう。わが政府には中国がどう出ようと軍事力を行使する意思はなさそうだが、現在の実力差がある限り、中国は武力行使はしないであろう。しかし将来、実力差が逆転した場合、中国はどんな勝手なことをするかはわからない。尖閣列島などすぐ対象となろう。わが国は中国に対しても米国に守ってもらうというだけでよいのか。
 わが国は中国を敵視する必要はない。しかし、わが国が国際的に必要な政策を追及するときに中国が反対すれば、それに従う必要もない。中国との国家関係は、淡々としたものであるべきである。核装備をし、外国に援助を行い、ミサイルをはじめとする軍事力増強に大きな努力を払っている中国にODAをはじめとする援助や借款を与えるべきではない。しかも中国はODAにしても目的に反して使っている場合があるではないか。
 最近では、「教科書」「靖国参拝」「李登輝氏訪日」などで中国から勝手なことを言われて、わが国はいま一つはっきりしない対応しかできない。李登輝氏訪日に対し、中国は李鵬氏の訪日を取り止めたが、それなどわが国にとってなんの不利益ともならないのに、中国は報復措置のように言っている。勝手な要求を出されながら、わが国は、国益から見た適切な対応ができない。さらに、金を出す以外に国際的に積極的な政策が打ち出せないでいる。
 地政学という学問がある。これは、地理的条件と政治とを関連させて考える学問で、戦後も米国では盛んである。竹内啓一駒沢大学教授(日本地理学会会長)は、「交通・通信手段の発達で物理的距離のもつ意味は減少しつつある。他方、ある国の人達が持つ日本・日本人イメージと日本人が期待するイメージとにはギャップがある。これからの地政学的考察では、他者イメージに基づくイメージ距離というものをもっと考慮に入れなければならない」と主張されている。
 中国は、初等教育から高等教育にいたる教育の場あるいは映画、テレビ等の多様なメディアによって、日本人が野蛮で残酷な侵略者というイメージを作り上げている。先般の教科書問題では、何も分からぬ小学生まで動員して反日デモを行うなど反日思想に溢れた韓国も大同小異だ。世界各国の中で或いはアジア諸国の中で中国と韓国はイメージ距離が日本と最も離れている。交通・通信手段の発達によって物理的距離の持つ意味が減少しているとすれば、イメージ距離の大きさを問題とせざるを得ない。世界の歴史にはさまざまな出来事があった。また、歴史認識など本来他国と共有できるものではない。過去にはとらわれず、わが国は中国、韓国とは政治的には距離を置くべきだ。

●集団的自衛権確立によるアジア経済圏構想

 前回の自民党総裁選では、集団的自衛権の行使を認めることが公約の一つとして議論された。国民意識の大きな変化を思わせる。わが国の集団的自衛権の解釈は、全ての点でおかしく、早急に改めるべきである。そしてこれを改めることは、わが国が国際的にダイナミックな目標をつくるチャンスになり得る。
 ブッシュ政権になって、米国はわが国に集団的自衛権の行使を認めるよう要望するようである。集団的自衛権を「権利としては有するが行使ができない」というのは、法の解釈として成り立つのだろうか。
 わが国は国連加盟時、すでに現憲法の下にあったが、なんの留保条件もつけずに国連に加盟をした。ということは、国連憲章の認める集団的自衛権の保有とその行使について、わが国は憲法上問題は無いとして加盟を申請し、認められたことになる。米国は、集団的自衛権の問題はわが国の問題としているが、もし米国からその点をつかれたら答えができないのではないか。
 米国は、わが国が集団的自衛権の行使を明確にし、米国がアジアで軍事的行動をするときに、対等な同盟国として行動することを期待している。よく言われる例であるが、わが国近海で米国の軍艦と自衛艦が並んで行動しているとき、自衛艦が攻撃されれば、米艦は自衛艦を助ける行動をしてくれるが、米艦が攻撃されても自衛艦はなにもできない。これで同盟国と言えるのだろうか――。
 米国のわが国に対する信頼を落とさず、同盟関係を弱体としないために、わが国は集団的自衛権の行使を認めるべきである。
 とはいえこれまでわが国が行ってきた努力〈例えば「日米防衛協力のための指針(ガイドライン法案)」の策定など〉は、日米関係をおかしなものとしないために、米国の要望にできるだけ合わせてきた印象がある。しかし集団的自衛権に関して、そのように受け身で考える必要は無い。受身で考えるだけなら、日本を漂う閉塞感を打ち破ることにはならない。わが国は、集団的自衛権の行使を自ら認めることで、国際的にダイナミックな目標を追求することができるようになるのである。それにより妙な平和の呪縛から開放される可能性もある。一方ブッシュ政権はわが国が米国の同盟国として、対等で独自の目標を追求することを認める傾向にあるように思える。
 今日の世界は、EU、NAFTAのように、グローバル化と地域主義が並列して同時進行している。グローバル化にはいろいろな意味があるが、わが国にとってグローバル化は必然である。そして同時にヨーロッパ、アメリカ大陸の地域主義に対して、わが国が考えられるのは、アジアしかない。わが国はインドまで含めたアジアの経済圏を構想するべきである。
 現在の状況を考えてみれば、経済的にも米国から離れたアジア経済圏は有り得ない。アジアにおいては、ドルと円の二重構造の経済圏を考えるのが現実的であろう。通貨について、アジアは今日ドル圏と言えるが、一部基軸通貨として円が流通するようにする努力はできないのだろうか。
 その場合、経済圏は経済だけで成立するものではない。その地域の安全が保証されていなければ経済圏は成立し得ない。今日の日本人は、すべての背後には「安全の保持が必要である」という感覚を忘れている。経済の背後には政治の枠組みがあり、政治の枠組みを維持しているのは安全保障なのである。
 わが国によるアジア経済圏構想について反対すると予測される第一は、前記した理由から中国であろう。中国はわが国から金は求めても、わが国が少しでも強力になるのには反対するであろう。しかもアジア経済圏構想に、台湾を除外することはできないが、それにも中国は反対するだろう。アジアの不安定要因は中国であり、アジア経済圏構想は、中国を除外しなければ成立しない。
 繰り返すと、アジアの平和の維持は、米国を抜きにしては有り得ない。そして、わが国がアジア経済圏を構想するとき、わが国もその安全保証の一端を担うことができなければ、円を保証することはできない。わが国も、安全保障のために、米国と並んで責任をもつべきで、それは、集団的自衛権の行使が可能になればできるのだ。そして米国だけでなく、タイやインドネシアなど、アジアの必要な国と同盟関係を結ぶことも視野に入れるべきである。
 米国との関係では、共同司令部の設置などより協力的体制をさらに強固にすることが必要となるかもしれない。沖縄からの米軍削減も、自衛隊による削減分の補完ができれば、より容易に計画し得るであろう。
 国民が逼塞感から開放されるためには、国際的目標の設定が必要に思える。集団的自衛権の問題は、その設定の第一歩となるのではないだろうか。
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