
■虎ノ門戦略研究所
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2001年11月
1 テロと犯罪
今回のテロについて犯罪という表現がよくされる。しかし、犯罪とテロはその背景が全く異なる。犯罪は通常犯罪者の欲望充足のために行われるが、テロは宗教、思想、政治上の目的達成の為に行われる。テロリストは目的達成のためやむを得なければ自らの生命をも賭す場合かあるが、犯罪者はそんなことはしない。目標のビルに航空機を操縦して突入することは容易にできるものではない。心がそう思っても、体は自らを守るために別な動きをしてしまう。よほど冷静で落ち着いていなければ難しい。テロリストを礼賛していると思われては困るが、我々とは異なる心情の持ち主であるが、信念に基いた行動であり、犯罪者と同一に考えては対策を誤るといういことである。
テロを裁く国家は法に基づき犯罪として裁くが、裁かれる側はその法自体を認めていない。戦いに敗れて囚われた、実力上の問題に過ぎないと思っている。伊藤博文を暗殺した朝鮮人 安重根は、法廷で、自分は日本国と戦った兵士である、日本の国内法で裁かれるのは承知できないと主張したということである。同様に、ビン・ラーデンが捕えられ裁判にかけられたとしても、彼は裁く方の正義と法を認めず、自分の犯したテロ行為の正当性を主張するであろう。それが公開裁判であるなら、彼の支持者は彼の主張を熱狂的に支持することとなろう。
テロを裁く側は、法治国家である以上法に基き裁く以外にはないが、テロの側はその法を認めないのであるから、その関係は非対称的である。仮にテロ側に政府側の人が捕えられ裁かれても、政府側はテロ側が裁く権利を認めないであろうことと同じである。
報道によると瀬戸内寂聴さんは、テロには反対するがテロへの反撃にも反対するとして断食に入ったという。しかし瀬戸内さんの行動は、オサマ・ビン・ラーデンやタリバンに対しての説得力は全く持たないであろう。もしアフガニスタンで彼女がこのような行動に出たならば、異教、邪教の布教活動であるとして処刑されるかもしれない。
あるテロリズムに関する論文で、サウジアラビアではシャーリア(イスラム法)に基く斬首や石投げ死刑、手首を切断する処刑を公開で行っている。これも国家によるテロとみなすべきではないのか、という意見が述べられていた。このような処刑は、我々の感覚からすると確かに恐るべき野蛮なものと見える。しかし我々がそれをテロといえば、サウジではイスラム法をキリスト教法(現代日本の法体系は、キリスト教文明の法体系を準用していると言ってよいであろう。)で裁断するものとして、それこそイスラム文明に対する挑戦と受け取るのではないか。
人道、平和は、我々現在の日本人にとって最大の徳目であろう。しかし、歴史上、宗教、文化、思想の違いの根本を共通してまとめ、あらゆる当事者を納得させ得る理念は、未だ現れていないのではないか。更に国際社会の現実は、理念と政治が絡まりあって対立抗争してきた歴史がある。ハンティントンの言う文明の対立も根本はそこにあろう。今日までの人類の歴史において、文化、宗教、思想の争い−それには勿論政治も大きくかかわってきているが−による死傷者の数は、国家が現世的利益を求めて争った戦争による死傷者の数より多いのではなかろうか。近、現代において兵器の発達は戦争における死傷者の数を増大させているが、少なくともその時代の人口に対する死傷者の割合を比較すれば、文化、宗教、思想の争いによるものの方が多いのではなかろうか、そしてその中での乳幼児、女子等に対する残虐行為の数量については言うまでもなかろう。
何故このようなことを述べるかというと、日本人は、自分たちの考える道徳が、異なる文化の人達に通ずるものと安易に主張し過ぎるように思えるからである。それは、日本人の安易な平和主義とも通ずるものであろう。そのような主張は、自分を行動の外に置き、他人ごとの批評をしているだけの無責任ともなる。
今回のテロでは、パレスチナ問題が根本にあるようにいう人がある。オサマ・ビン・ラーデンはサウジアラビア人で現王家からより追放された人間である。オサマの本当の目的は、サウジアラビアを彼の原理主義的主張に基づく中世的国家にしようとすることであり、現王家を支援する米国をターゲットにしているのだという意見もある。また、米国の唯一のスーパー・パワーであり、自分勝手な理屈に基づく自己の利益の追求や国際政治上のダブル・スタンダードが、問題を引き起こした原因であるという人もある。私にはパレスチナ問題の解決がイスラムのテロの基本的解決になるとも思えず、また米国のダブル・スタンダードが決定的に責められるものとも思えない。しかし、そのような一面は確かにあろう。しかしそれを問題にするなら、イスラエルの建国いやイスラムとキリスト教の歴史そのものを問題とせざるを得ない。パレスチナ問題は各国の人々に受け入れられ安いメッセージであり、湾岸戦争の際フセインも、それを揚げていたということである。いずれにせよ、これらのいわば遠因を追究することは、オマサ・ビン・ラーデンが続けて行っているテロの解決にはならない。米国内におけるユダヤ人の影響力は強いけれども、米政府がパレスチナ問題の解決に努力しようと限界がある。米国に決定的な力があるのにそれをイスラエルに対し行使しないと見るのは、間違っていると思う。
イスラエルとの平和、共存を選択したエジプトのサダト大統領を暗殺したのはエジプト人の原理主義者であったし、パレスチナとの平和、共存を追求したイスラエルのラビン首相を暗殺したのはイスラエル人の原理主義者であった。しかも、現在のパレスチナとイスラエルの報復合戦に火を付けたのは、現在のイスラエル首相シャロン氏である。彼が首相になる前に神殿の岡を訪問したのがきっかけである。その後イスラエルで民主的にシャロン氏は首相に選ばれた。
問題は、我々日本人は今回のテロに対してどういう態度を取るべきなのかということである。
テロリストは、自分の宗教、思想、政治上の目的達成のため、自らが正しいと信ずる行為をする。それは形の上で似ていても犯罪とは理念が異なる。その点の理解がまず大切である。一方我々としては、彼らが自分の信念に如何に真摯であろうとそのこととは関係なく法に基づいて裁くより外はないし、またそれで良いとの信念も必要である。法に基いて裁くということは、テロと戦うということである。テロと戦うのか、戦わないのかそこをはっきりさせる必要がある。テロは反対だが、テロへの反撃も反対ということは、テロと戦わないということを意味する。
2 様々なテロ
テロは、宗教、思想、政治上の目的達成のための暴力行為である。同時にそれは弱者の闘争手段である。宗教、思想、政治上の目的が平和的には達成出来ず、そればかりではなく、武力的にも対等に戦うことが出来ない場合に使われる手段である。ゲリラも弱者の戦闘手段であるが、ゲリラは一応支配地域を持っているし、住民の間に隠れ軍服等の着用もしない場合が多いが、部隊としての行動も行えるだけの活動範囲を持っている。テロは、基本的には更に弱小な集団によるもので、通常上支配地域を持たないし、部隊としての行動も出来ない。支持の有る無しに関わらず民衆の間に隠れ、密かに目的に近好き、目的を達成すれば、密かに逃れようとする。国内で安全が確保出来なければ外国に潜伏する。行動は通常の犯罪者と同じである。
テロの歴史は、人類の歴史と共にある。そのあり方も色々である。わが国近代におけるテロに、明治二十二年時の外相大隈重信に対する爆弾テロがある。当時、明治政府のそして日本国民全体の外交上の最大の課題は、不平等条約の改正であった。大隈外相は、改正の困難さから、とりあえず税権だけの自主性回復をなし、裁判権については日本の裁判所に外国人法官の任用を約束して列強の信頼と同意を得ることによって、条約改正をなそうとした。これに対しては勝海舟をはじめとして国内をあげての大反対がおこった。時は議会開会の前であり、議会による反対の道は無い。剛毅な大隈外相は大反対の声にもかかわらず自分の案による改正を強行しようとした。玄洋社の来島恒喜は、外相をテロにより殺害し条約改正の強行を阻止しようとした。大隈重信外務大臣の馬車に爆弾を投げ、馬車が濛々たる黒煙に包まれて外務省門内に走りこむのを見て、短刀を取り出し自ら頭をはねて自刃した。大隈外相は、片足を失ったが一命はとりとめた。しかし大隈案は廃案となった。来島恒喜は、人を殺害したことに対する責任を自らの命で贖ったのである。
ロシア革命前夜には多くテロリストがいた。テロリストの1人カリヤーエフは、セルゲイ大公を暗殺しようとして爆弾を持って大公の馬車に突進したが、馬車には大公の外に大公夫人や大公の甥である二人の子供が同乗していた。カリヤーエフは爆弾を投げずに立ち去るのである。暗殺のチャンスは容易にあるものではない。自分自身だけでなく自分たちの組織の意思を裏切ったのではないかとカリヤーエフが悩みつつ妻や甥達まで殺す権利があるかと仲間と議論するところが、テロリスト サビンコフの手記に生々しく記されている。結局は、サビンコフは大公暗殺に成功するが捕えられ絞首刑に処せられる。暗殺に成功した時、同志の女性テロリスト ドーラ・ブリリアントは、大公を殺した責任は自分にもあると言って泣くところも、同手記に記されている。
思想上、政治上、テロ行為を正当としつつも、自分の行為に対し良心の呵責に悩むテロリストも歴史上はあった。私はテロを容認するものではないが、彼らは、敵ながらあっぱれと思う。
9月11日のテロは、オマサ・ビン・ラーデンの宣言では、キリスト教とユダヤ教に対する戦いであり同時に米国に対する戦いである。死を覚悟していても航空機を操縦してビルに突っ込むことは容易にできることではない。死を賭しての行動でも、体は頭で思うことは別の動きをするものだ。よほどの信念と冷静さをもたなければ、正確に突っ込むことはできない。その宗教上、思想上の信念は、人間としてはなまなかなものではない。しかし我々の目から見ると、航空機の乗客と世界貿易センタービルにいた数千の人たちを殺傷することは、無差別殺人であり許しがたい。
最近のテロでは、民衆を巻き込み民衆を標的にすること自体が目的となるものが多くなった。民衆をテロに巻き込み恐怖を社会に浸透させることによって、政府が少しでも政策変更をすることが出来れば成功である。そればかりではない。最近は、目的とは関係なくとも大衆を巻き込むことに、テロリスト達は、何の痛痒も感じなくなって来ているようにさえ見える。最近のパレスチナのテロとそれに対する不均衡に思えるイスラエルの報復はその典型のように見える。しかしそれ以前から、例えば、1972年ミュンヘン・オリンピック村でイスラエル選手11人が殺害され、1993年のニュウヨークの世界貿易センタービル爆破事件(8人死亡、1、000人以上負傷)、1997年9月と11月のエジプトにおける、カイロ博物館前での観光バスに対するテロ(9人死亡)、ルクソールで観光客に対するテロ(60人死亡、日本人観光客も犠牲者となった)は、どの国からとは問わず市民や観光客が無差別にテロの目標となった。これらのテロを数えれば限りないが、イスラムだけではない。
スリランカでは継続してテロをおこなっているし、アイルランドではIRAのテロが続いてきた。真のIRAによる1998年の北アイルランド西部オマー爆弾テロは、非難を浴びた。この間日本赤軍派も市民に対する国際的テロを行っている。国内ではオーム心理教がテロを行った。オームが宗教であるかないかを論じても仕方がない。それを信じる人たちがいるということなのであるから。
この様なテロは、テロリストに人間性を感じさせる来島恒喜やカリヤーエフのテロと区別すべきなのであろうか。テロということでは、テロの対象となった者や犠牲者の数にはよらず同じであろう。それなら全てのテロ反対といえるかというと、テロ自体には賛成できないが、中国新疆ウイグル地区のイスラム教徒の独立のテロなどは、中国政府に対して外に抵抗の手段がない以上、同情を感じざるを得ない。中国政府は、文化、人種等全く異なる地域に漢民族を送り込み漢民族化を図り、本来そこに住んでいたウイグル人を弾圧しているのである。
9月11日のテロは、米国としては、米国を象徴する建物が攻撃され、また米本土が大規模な攻撃を受けたのであるからその衝撃は大きかった。しかしこのテロが新しい世代を画するものとなるかというと、私はそうは思わない。無差別テロは従来からあったので、その被害が大きくなったに過ぎない。自爆テロという意味では、爆弾を積んだ自動車で突っ込むテロの例は多い。航空機を乗っ取り爆破するというテロもあった。巨大な旅客機を爆薬として使うということが始めてであったが、そのアイデアの新しさだけをもってこのテロが新しい時代を画するものであるとは考えられない。
このテロで改めて大衆の目に晒されたのは、現代都市は、機能が集積し人口が密集して攻撃に弱く、攻撃を受けた場合の被害は大きい。そして、科学技術の発達は甚大な被害を与える攻撃手段の入手を容易にしているという事実である。このテロで何でもありの時代となったというが、これまでも戦いの実態は何でもありであったのだ。テロだけではない。人道が叫ばれ、そのための国際法が論じられるが、戦争自体何でもありである。第二次大戦における大都市爆撃や、広島、長崎への原爆投下は、明らかにそれまでの国際法違反である。しかし日本でも使うことが出来れば、勝つためには使ったであろう。戦いは勝たねばならず、そのための手段は、科学技術の発達とともに量、質共に拡大しているのだ。関係ない市民を巻き込むテロは、国際法はどうあろうとも、戦争において一般市民が巻き込まれていく歴史の現実の反映なのかもしれない。また、共産主義は、目的の為には手段を選ばずと主張した。これなども西欧的知性に一つの影響を与えるものであったかもしれない。
テロの国際的連絡とか犯罪組織との結びつきもこのテロで始まったことではない。しかしこのテロの特徴を挙げるとすれば、タリバンという準国家的集団の庇護と支援を受けていたことである。米国がならず者国家と呼ぶ国々は、例えば北朝鮮のように国家が自らテロを行った。オサマ・ビン・ラーデンとアルカイーダは、テロ組織に過ぎないが、タリバンの庇護と支援を受けているのであり、実態は国家によるテロやゲリラによるテロのようなものとなっている。通常テロ犯の追求は警察が行うが、米国がアフガニスタンに軍隊を送るのはこのためであり、米国が戦争と呼んでいるのもそのためであろう。今回のテロへの対応を戦争と呼ぶことに違和感を感ずる人もいる。戦争は国際法では、従来国家が戦線布告したものが戦争であり、満州事変、支那事変に事変という名称が使われていたのはそのためである。支那事変が日中戦争と呼ばれるようになったのは東京裁判においてである。国際法上の定義を論ずるつもりはないが、違和感を持つ人は、国家或いはゲリラ集団によるテロに対抗するのと同じと考えればあまりおかしくはないのではないか。
3 テロへの対応
テロが行われれば反撃するのが、テロ対策の第一である。犯罪の場合であっても、犯罪者を追求しなければ犯罪を助長するだけである。報復が心配と言うのも本末が転倒しており、テロ集団を攻撃し弱体化させなければテロは更に激化すると考えるのが正常であろう。
問題は、我々がこのテロにどう対応するかということである。タリバンは女性に教育の機会を全く与えず、社会的活動を認めない。このような中世イスラム的考えを現代に出現させようとする集団は文明の敵であり、世界の敵であるから、わが国もタリバン等文明の敵として戦うべきだという主張もある。私の感覚ではそこまではついていけない。タリバンがそのような生き方をしたければ、彼らだけでそうやっていくならそれで良いではないかと思う。といって、テロも反対だが反撃も反対という立場にも賛成できない。
オマサ・ビン・ラーデンが敵とするのは、キリスト教とユダヤ教であり米国である。我々日本人は目標となっていない。しかしこのテロは、そのための戦いに何を巻き込んでもかまわないという態度をとっている。キリスト教徒、ユダヤ教徒、アメリカ人ばかりでなく、ヒンズー教、仏教、その他如何なる宗教であろうと、如何なる国民であろうと、そしてイスラム教徒としては禁じられているはずであるがイスラム教徒であろうと、巻き添えにすることに躊躇していない。現にフィリピン発の航空機が機内で爆発を起こし日本人一人が犠牲となり死亡したテロでは、犯人が捕らえられオマサ・ビン・ラーデンの指令により航空機爆破の予行としてやったのだと自白している。この様なテロに対しては、日本は戦うべき相手と考えるべきではないのか。
日本人は多様な価値を認め共存することに違和感を覚えない。しかし我々の大切とするものを侵すものとは戦うのが、日本人少なくとも武士の基本であった。例え相手の発想に理解と同情を持ったとしてもである。それが敵ながらあっぱれの思いでもあろう。敵であるから平和共存などはあり得ない。あくまで戦うが、日本人は敵は人間とは認められない異教徒とは思わないのである。
私は、戦後、敵がありうるという感覚が日本から失われたのではないかと思う。色々な価値観の共存を是認するとしても、あいまいにぼんやりと何でも受け入れてしまうのでは、国家も民族も存続し得ない。特に今日のような時代には、批判精神をもって受け入れるのではなくては、自分が何を最も大切にしているのか分からなくなってしまう。戦後の行き過ぎた平和主義、ギルティー・コンプレクスの植え付けが、批判精神を失わせてしまったのではないか。例えば、暴力は全て反対という平和主義は、自分が、家族が、日本国民国が、迫害され、殺され、奴隷とされても全く抵抗しないという覚悟がなければ成り立たない。テロも反対テロと対決することも反対というのは、この世に敵があり戦いがあり得るとういうことを理解しないものだ。それでは人間は大人になれない。今日子供のような考え方をする人が多いのは、そのためかもしれない。
そして平和状態しか念頭にないから、緊急時を理解できない。例えば最近の米国内では、アフガニスタン出兵に反対の声が抑えられる傾向が出ている、自由主義が抑圧される傾向が出はじめ問題であるとのコメントがあったりする。米国で自由主義が抑えられる傾向が出てきたとすると大問題であり、世界が悪いほうに変わっていくると押っ取り刀で取上げる人もいる。しかし現在の米国は、第二次大戦中程までとはいかなくとも、非常時なのである。非常時には国家や社会が、ある目的の為にある程度統一されなければやっていけない。国民は自然とそのような感情になる。しかし米国の社会的伝統は、平和時にもどれば自由な社会に戻るであろう。それが米国の伝統である。平和時と非常時との社会における差を理解しないのは、平和ボケの一つである。
同じことは、派遣先の自衛隊の行動や装備についての議論にもいえることで、自衛隊は平和時の国内で行動するわけではない。法が働かない外国で行動するのである。平和時における国内の警察の行動に対する規制と同様な感覚で、いわば何でもありの戦場近くに派遣される自衛隊の行動や装備を論ずるのは、間違いであるし、シビル・コントロールでもない。
今回のテロの背後にある考えは、彼らの信ずるもの以外は如何なるものも犠牲にしてよいという考えである。このような考えは、我々は敵と考えて行動すべきではないのか。
しかもこのテロでは日本人が多数殺されている。誰が居ようとかまわず攻撃はしたのであるから、単にたまたまそこにいて巻き添えをくったというのではなく、そこにいることを承知ですなわち攻撃目標として日本人も含まれていたということと同じである。日本の報道では、日本人が何人犠牲になったか、まるで天変地裁にでもあったかのような報道であった。日本人が攻撃され殺されたとの認識がないかのようであった。日本人が死んだというのではなく殺されたという認識があって当然ではないか。日本人が殺されても関係者しか腹を立てなくとも、日本人が殺されたのは事実である。これは日本人に対する攻撃なのであるから、自衛権の発動として対応してもよかったのではなかろうか。しかもフィリピン航空における爆破予行で、すでに日本人一人が殺害されているのである。
しかし今回の日本の対応は、戦う米国への支援であった。その支援が、わが国は直接には関係ないが同盟国米国が攻撃されたのであるから協力しなければならないという発想であれば問題である。わが国は巻き添えをくったがそれはそれであり、同盟国米国が戦うのに対し貢献をしなければ同盟関係が傷つく、ほうっておけば場合によっては世界の孤児となる恐れもあるからということで支援をするのであれば問題である。
自衛隊の米国に対する支援は、今まで、同盟関係が傷つくからというのが理由とされてきたように見える。同盟関係の維持は、日本にとって最も大切な国際関係である。しかし目に見えないその維持のために、あれをさせられる、これをさせられる、しかも米国の要求によってさせられるというのは、日本人の心理にとって極めて好ましくない。嫌米感情といわれるものが発生する原因の一つにこのようなことがあるのではないか。支援のための措置は、本来は、わが国が独自の外交をするためにも必要なものである。ところが安全保障に自ら責任を持たず国益の考えが経済しかないために、米国に対する支援だけが目的になってしまう。
日本は米国に安全保障を委ねている。米国は親分のようなものである。親分のいうことは聞かねばならないが、心の底は嫌々ながらである。これが米国に対する甘えと重なって、日本人の間に妙な嫌米感情を作りだしている。それが、某野党婦人国会議員のホーム・ページ上の発言「いい気味と思っている人もいる」との発言になり、また米国のあらを取上げようとばかりする一部メディアの発言となるのであろう。例えば愛媛丸事件の場合は、過失をした米国への非難は喧しいものだった。ところが同じ日本人過失ではなく意図的に殺された今回のテロでは、犠牲者の発表は天変地変にあった場合のようであった。今回のテロに対しては、被害を受け戦っている米国を、同盟関係にはあるがテロ問題とは関係の無い日本が協力をするという考えは好ましくないと思う。日本自らとの関係で米国を支援するということでなければならない。
4 特措法等成立に至る議論
今回憲法解釈は変更せず、集団的自衛権行使の議論はなされなかった。集団的自衛権を保有するが行使できないとする議論がおかしいことは、今さらここで述べるまでも無い。自衛隊創設以来かなりの間学説はほとんど自衛隊違憲説であった。しかし政府は、自衛隊合憲説で微動だにしなかった。今日、学説でも識者の意見でも、集団的自衛権行使容認説は多くある。法制局という官僚組織の解釈は、過去の解釈上の延長で狭く考えることしか出来ない。これを変えるのは政治の役目である。
国民注視の的であった前回の自民党総裁選では、各候補とも条件を付けずに集団的自衛権の行使を認めると言っていた。総裁選は自民党内の問題であったが、国民的注目の的であった。そこで各候補が集団的自衛権の行使を容認していたのは、国民がそれを望むとの判断があったからではないのか。今回の米国支援は、それがまさに必要とされる時であるのに、小泉首相は与党三党及び野党との関係でそこまで踏み込めないように見える。とすると国会内の各党の意識は、国民からかなり離れてしまっているのではないか。
更に集団的自衛権の問題は、歴代内閣による現憲法の解釈の変更で可能である。それを憲法改正と結びつけるのは、私には逃げの議論に過ぎないように思われる。わが国は歴史的に憲法を簡単に改正することに慣れていない。更に現憲法は硬性憲法であるしその外の様々な問題を有しており簡単に改正できるものではない。憲法改正を主張するのは正論でもない。現実政治においては引き伸ばしに過ぎない。
対策法が成立するまでの間、各党で色々な議論が行われた。国会は立法機関であり、政治家の集まりである。そこでは本来、新しい事態に対してわが国は如何に対応すべきかの議論があり、それに対して現行の法にはどのような問題があるかの議論があり、法に問題があればそれをどうするかの議論があるべきであった。ところが現在ある法から見てどうかという議論が先行したように思える。それは、法の執行者である官僚の議論であっても、立法者、政治家の議論ではなかろう。
また、今回のような場合に国家としての対応が問われているのであるから、共産や社民は別として各党は、それぞれの主張は撤回しなくとも妥協があっていい筈である。それが面子や自党の基本的立場に固執して反対にまわるのは、現実に対応すべき政治家集団として問題があるのではないか。
自衛隊の国内における使用にもおかしな議論が多かった。国内の問題に対しては第一義的には警察が対処するとは、何で決まっているのか。警察の保有する能力で対処出来ないところは自衛隊が行うのは、国家の機関の保有する事実上の能力からの判断であるべきである。そして能力に応じた振り分けによる使用が法的に整備されていなかったら、立法機関としてそれを行えばよい。優れた官僚組織は、自己の組織の拡大を追及する。自衛隊の保有する能力を他の国家機関が重複して持つのは、資源、予算の無駄使いである。
テロ対策法が成立するまでの間、各党で色々な議論が行われた。国会は立法機関であり、政治家の集まりである。そこでは本来、新しい事態に対してわが国は如何に対応すべきかの議論があり、それに対して現行の法にはどのような問題があるかの議論があり、法に問題があればそれをどうするかの議論があるべきであった。ところが現在ある法から見てどうかという議論が先行したように思える。それは、法の執行者である官僚の議論であっても、立法者、政治家の議論ではなかろう。
また、今回のような場合に国家としての対応が問われているのであるから、共産や社民は別として各党は、それぞれの主張は撤回しなくとも妥協があっていい筈である。それが面子や自党の基本的立場に固執して反対にまわるのは、現実に対応すべき政治家集団として問題があるのではないか。
テロ特措法等が検討される過程で、様々な意見が出された。その中で自民党の一部長老議員の発言には驚かされた。私には、それは当人の見識を疑うことだけ済ますわけにはいかない、自衛隊に対する侮 辱のように思えた。わが国の政治に大きな影響力をふるった人達が、この様な発想で今日までの自衛隊を考えていたのか。私は深刻な怒りを感じる。隊友の皆さんは、どう感じておられるのであろうか。
あきれ果てたのが朝日新聞に載った後藤田正春氏の発言である。氏は、警察庁長官の後政治家となり、官房長官、副総理・法相をつとめた人であることは、今更言うことも無かろう。しかも、氏は危機管理にも通じた良識派の重鎮のように思われている人である。くどくなるが氏の発言に逐一コメントしたい。
氏は、まず、「米軍基地ばかりか、国会など重要施設を自衛隊が警備するという話も出てきた。治安は基本的に警察の仕事。両者はまるっきり役割が違う。警察の手に負えなくなったとき、初めて治安出動で自衛隊の力を借りればいい。そうでない限り、国民に直接、銃口を向ける立場に自衛隊員を立たせてはならない。」と言っている。重要施設がテロ、ゲリラの攻撃の対象になる可能性がある場合、装備、訓練など警察では、対処出来ない場合があることは目に見えている。テロ、ゲリラに対する場合警察と自衛隊の役割の差は、能力上の差にすぎない。両者はまるっきり役割が違うとはどういうことか。通常の犯罪の場合なら、まるっきり役割が違うといえよう。しかし、今問題としているのは、高度な或いは先端的な武器を持つ外国人テロ、ゲリラである。
テロ、ゲリラに対しては、能力に応じて警察か自衛隊が対応すればよい。それが国の機関の効率的活用であり、警察に自衛隊と重複する装備、部隊を持たせようとするのは、国費の無駄遣いである。国に対する脅威は時代の変化と共に変わる。時代と共にそれまでは想定していなかった脅威が出現する。それにとりあえず現体制で対応しようとすれば、出来る範囲での法律の解釈の変更、それで対応できなければ、新しい立法が必要となる。脅威にどう対応するかが求められているのである。ところがわが国では自衛隊が関係すると、政治上の議論においてこれまでの法の解釈が先行し脅威にどう対応するかの視点が失われてしまう。政治が国家の目前の脅威に対抗するには、本末転倒の議論であるように思えるが、そのような一般的傾向にもまして後藤田氏の意見は硬直化している。
更に、これは治安出動の問題ではあるまい。治安出動は、「・・・・間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては、治安を維持することができないと認められる場合には、・・・・」となっている。治安を維持することができないと認められる場合であって、主として外国勢力と結びついた反乱のような事態を考えている。重要施設、例えば原発へのミサイル攻撃に対する場合等相手は、ゲリラ、テロであり、治安維持とは異なるのではないか。
しかも国民に直接銃を向けるとは、何と言う発言か。正気の沙汰の発言とは思えない。先にも述べたように、国民に銃を向けるのではない。重要施設を守ことは国民を守ることである。自衛隊が銃口を国民に向けるというなら、警察は、拳銃の銃口を国民に向けるということなのか。そして、能力に余ることを警察にさせ、必要も無く警察官が殺傷されることが、元警察庁長官の後藤田氏には好ましいことなのか。
氏は続けて、「軍隊はなくてはならない組織だが、使わないのが一番国民のために幸せ。」といっている。命を賭けて仕事をするのであるから、使われないことは自衛隊にとっても幸せである。しかし使うか使わないかは国際情勢に対する判断であって、それが国民のために必要と判断するから、使うことを考えるのである。簡単に使ってはならないのは当たり前であって、「使わないのが一番国民のために幸せ。」とは、使う、使わないがわが国の事情だけで決められるような言い方である。何を考えているのか分からない。
「戦後の変遷を経てだんだん自衛隊は役に立つとわかってきた。そうなると、おれたちを早く使ってくれという動きが隊内にも出て来る。そこが間違いだと思う。」とある。戦後の変遷を経てだんだん自衛隊は役に立つと分かってきたとは、どういうことか。国家にとって必要だから、自衛隊憲法違反との憲法学者の意見にもかかわらず創設された。だんだん分かってきたなど元副総理、法相の見識を疑う。そして、「そうなると、おれたちを早く使ってくれという動きが隊内にも出て来る」とは、どういうことか。武器使用も非合理な制限を課せられ、不要な犠牲の心配もある。命令があれば出るが、こんな状態では不安だというのが、実情であろう。早く使ってくれという動きが出て来るとは、自衛隊に対して非礼である。その前に自衛隊のことを何が分かっているのか、己を知るべきであろう。
「治安出動が下る前に、国内治安にまで自衛隊が出ていくなんて、間違いもはなはだしい。」と最後に述べている。しかし、テロ、ゲリラが常に国内反体制勢力と呼応していると考えるのは、警察庁勤務時代から頭が変化していないのではないか。
次に、 某元首相は、「ある年齢以上の人間はどうしても陸軍の一部将兵が決起して東京のど真ん中で起きた昭和十一年の二・ニ六事件を連想してしまう。同じことでも被害が出てから自衛隊が出動することには期待するのだが、予防の段階から(自衛隊に)いてもらうことには、賛成しにくい」と某紙で述べている。
軍隊というと二・二六事件の時の兵を思い出すというのは、軍隊に対する氏の原体験でなのかもしれない。しかし軍隊も自衛隊も国の機関であり、それぞれの機能があり、国家にとって必要だから存在する。必要がないのに保有しているというなら、それこそ行革の対象とならなければならない。しかし氏は、自衛隊は必要ないとは言っていない。
問題は、原体験に基く感情判断から自衛隊を如何に使うかの判断が行われていることである。予防の段階から自衛隊がいることこそテロの抑止にもなる。自衛隊が予防の段階から出るか出ないかは、政策判断の問題であるのに、個人的感情から判断がなされているのは、政治家として更には元首相としてどうかということである。
軍隊は国家にとって必要であるが、二・二六事件のようなことはあってはならないというのは、誰も異存は無い。あのような事件がおきないようにするには、軍隊の管理は如何にあるべきか、そして現在の自衛隊はどうかということである。政治家であるならそのことと自分の感情は別の次元の問題であろう。私は、当時と現在の社会、部隊のあり方更に幹部の人事管理からしても、あのうようなことは起こりえないと考えるが、宮沢氏は、そのような自衛隊の根本を問題としているとは思えない。原体験からする感情から政策に対する判断をしているだけのように見える。自衛隊をどう使うかの判断が、このような次元からされていたとは情けない限りである。
戦前の軍隊特に陸軍は、政治に介入したことでも、下部機関(関東軍)が中央の指令に従わなかったことでも、下僚が上部のいうことを聞かなかった(下克上)ことでも、徴用の仕方でも、私は、組織そのものとして疑問を感じている。しかしそこでの体験が戦後の自衛隊に対する感情の基本となり、そこを基に判断がなされてきたとすれば、国家の安全保障をあずかる政治家として、元首相を勤めた人としてあまりにお粗末のように思われる。
後藤田氏と同様、自衛隊が重要施設の警備に出ることは国民に銃を向けることだと言った政治家は外にもいる。これらの人達は自分達の原体験から来る好き嫌いでもって、国家にとっての基本問題を考えているようだ。日本がいつまでも米国に安全保障を依存しているのも、ここらに原因があるのであろう。皇居、国会、首相官邸を自衛隊の警備対象からまず外すとの報道がなされた時、それを耳にして「それらは重要ではないのか」と反射的に言った人がいるが、国民の感情はそのようなものではなかろうか。
最後に、今回のテロのあと米国人と付合いのある人は皆困ったであろうのは、何かと言えば真珠湾が引き合いに出されることであろう。真珠湾は、軍隊が軍隊を攻撃したのであり、今回のテロは無差別テロだと心の中で言ってみても不意打ちだということでは、言い訳にもならない。わが国を攻撃させるためのルーズベルトの謀略説などが出まわっているが、それも理由にならない。しかし少なくとも当時の日本政府は、宣戦を真珠湾攻撃の前には米国政府に布告する意図であった。それが遅れて出来なかったのは、当時の在米日本大使館の怠慢である。一時間前でいい。攻撃の前に宣戦布告すれば、騙まし討ちとはならなかった。そう考えても事実は事実として、おそらくいつまでも我々は、その汚名を背負わなければならない。しかし歴史上その責任の重大さを我々日本人は、追求すべきではないのか。
戦後の日本は、極東裁判史観か或いはその反対の史観しかなく、日本人の手で負けた戦争の責任を問題とすることは無かったように思う。最近では,日本人の目で陸、海軍に対する批判もされるようになった。そのなかで宣戦布告に遅れた怠慢の責任ははっきり追及すべきである。私の知識では、騙まし討ちは日本国家にその意思があったのではなく、おそるべき、あり得ないような国の出先機関の怠慢によるものであった。その結果は、日本人としてそれを以って外国に言い訳出来るものではない。しかし日本人としてこのままではうかばれない思いがする。 |
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