

■虎ノ門戦略研究所
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■■■チベットは中国の内政か 1 ■■■
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平成20年4月7日
1 騒乱の示す中国の不安定
ラサ市内で僧侶のデモから始まった騒乱は、中国政府の武力による鎮圧にも関わらず、国内各省のチベット人居住地域に広がり、新疆ウイグル人地区等にも広がっている。中国には経済の発展ばかりに目が行く嫌いがあるが、経済も含めて、内部に色々な大きな問題を抱えている。今回の騒乱は、その一つを顕わにした。オリンピックの開催により、中国政府は、中国が安定して発展していることを世界にアッピールしたい。しかし、軍、警察や公安による中国共産党支配に対して、世界に訴える以外に戦う手段のない抑圧された人々は、オリンピックをその大きな機会と捉えたのではないか。
中国による少数民族支配の方法は、宗教弾圧とそして彼らの居住地域に多数の中国人(漢民族)を移駐させる同化政策だ。しかし、宗教弾圧は、その民族の抹殺以外に成功しないことは、世界の歴史も中国の歴史も証明している。
中国の漢民族移駐による同化政策は、経済的にも漢民族が利得を得るだけで、異民族は貧困が進むだけだ。ラサの暴動でも漢民族の店が襲われたというのも、それを物語っている。
そしてより大きな問題は、漢民族の間にも、不満が農民から知識層に至るまで広がっていることだ。地方政府と業者の結託による開発用の土地の収奪、環境悪化による農地の荒廃、資源不足、極端なまでに広がった経済格差、とんでもない腐敗の拡大、更には自由の抑圧などに対する不満は、年々増大している。地方における暴動、騒乱事件が、昨年は七万四千件を越え、参加者は三百七十六万人に達し、10年間で7倍となったという報道もある。また労働争議も二十六万件に達したという。
オリンピックの聖火は、中国国内を広く回ることとなっている。聖火出発の時にチベット人による反対行動があった。独裁政権下でも噂はあっという間に広がる。聖火の回る所のデモが、自分たちの主張を外国メディアに訴える手段と知れば、デモが、異民族、中国人を問わず広がる恐れがあるのではないか。それはオリンピック開催中にも起こるかもしれない。中国政府が如何に厳しい規制をしようとも、オリンピックに関連して、外国メディアを完全に締め出すことは難しいだろう。また、天安門事件の再来は、胡錦涛にとっては悪夢だろう。
独裁政権下では権力闘争は付きものだが、国内の事件が、胡錦涛支配を覆す転機となる可能性も無いとは言えない。聖火の国内巡業は、胡錦涛にとっては、国内安定のシンボルとしたかったのだろうが、逆に墓穴を掘る結果となるかもしれない。中国騒乱の始まりとなるかもしれないのだ。
2 中国の軍事侵略で初めて中国の支配下に入ったチベット
血だらけになって倒れている僧侶の写真が週刊誌に生々しい。中国政府は、チベットは中国の内政問題として、他の国の非難に反対している。しかし、チベットは中国の一部なのか。共産中国が武力で征服しただけの国の支配を内政と言うなら、中国は日本の中国大陸侵攻を非難できるのか。
中国の歴史は、他民族王朝による支配が多いが、漢民族王朝の時代にチベットが支配下に入ったことはない。強大を誇った漢や唐の時代もチベットは征服できなかった。チベット人(吐蕃)は、唐の時代には唐の首都「長安」まで攻め込んだことがあるくらいだ。チベットは、七世紀に興った吐蕃王朝の時代はなかなか強力だったようだが、その後統一政権が出来なかった。しかし十三世紀モンゴルに一部が支配された外は、他国に支配されたことはない。宗教的には、チベット仏教はモンゴルのハーンを含め多くのモンゴル人に帰依されるようになり、ダライ・ラマは、広大な地域の精神的指導者となる。
満州人の清朝が中国を支配すると、清はチベットと同盟関係を結ぶ。やがて大臣を送るなど間接統治をするようになるが、現中国のように支配下に置いたということはない。チベットの自治は形の上では保たれていた。やがてイギリスの勢力がアジアに伸びると、イギリスがちょっかいを出し、開発権と外交権をイギリスの支配下に置くというラサ条約をチベットと結んだりして、清国を慌てさせたりする。ダライ・ラマが宗教上の権威であり、政治上の統治権も併せ持つというバチカンのような神権政治形態は、現中国の支配が及ぶまで崩れたことはないのだ。
チベット人は、チベット高原にだけに居住すると思われるかもしれないが、そうではない。チベット人の居住地域は、チベットだけではなく、青海省、甘粛省、四川省、雲南省など広域に広がっている。
辛亥革命で清朝崩壊後、チベットは、中国の中華民国政府から自治権を得た。しかし、内戦で中華民国政権が台湾に逃げ込み、1949年中華人民共和国が成立すると、中国は、チベットは中国の一部と主張し始める。
1950年、中国政府は、中国解放記念日にチベットの「平和的解放」を開始したとラジオで発表し、八万人の人民解放軍がチベット領内に侵入した。チベットには総員八千五百の兵員しかおらず、近代的装備も訓練も無に等しい状態だった。ダライ・ラマ十四世は、まだ成年に達する二年前だったようで、摂政が政治を行っていたが、緊急事態に、急ぎ世俗的政権の座にもついた(「ダライ・ラマ自伝」文春文庫)。
こうして軍事侵略した中国政府は、五十一年「十七条協定」協定を結び、実上の併合を宣言する。「十七条協定」は、チベットの自治、信仰、風俗を尊重するとしているが、中国政府の行ったことは、チベットの自治、信仰等の徹底的な破壊だった。チベット仏教は、布教活動の禁止、寺院の破壊等により徹底的に弾圧された。 三世紀以前からほとんど変わっていなかった宗教都市ラサも、中国により広げられ、広い道路やコンクリート建築を建てられ、30万人の中国人が住むようになった。ダライ・ラマの居住施設であったボタラ宮殿も世界遺産に登録され、観光施設に変えられてしまった。中国政府の約束がどんなものなのか、世界は知るべきだ。
怒った僧侶をはじめとする大衆は、59年に反乱を起こすが、駐屯する中国軍により弾圧された。ダライ・ラマはインドに亡命し、亡命政府を樹立する。89年、ラサでは、チベットの独立を求める大規模な暴動が起きるが、軍隊により鎮圧された。これを冷酷に指揮したのが、チベット自治区共産党書記に就任した胡錦涛だった。この年北京では天安門事件が起こり、共産党一党独裁の改革が求められたが、ケ小平は、軍隊と戦車により、集まった学生達を弾圧した。胡錦涛は、ラサにおける弾圧により、ケ小平に認められたと言われている。
中国による打ち続く弾圧等で、チベット自治区約220万人のチベット人の内約120万人が死亡した。更に、中国の同化政策により漢民族が移駐し、チベット人よりも漢民族の人口の方が多くなっている。
中国はチベットは中国の内政問題と言えるのか、歴史から言って無理だ。清は、満州族の王朝であり、中国は、清の植民地で、漢民族は被支配者で二等市民だった。例えば、辮髪という長い髪を結って垂らす外国の風俗が、漢民族に法により強制されていた。清の末期、漢民族の抵抗運動では、辮髪を切ることが非合法活動の象徴であった。
その清の支配地を中国は中国の支配地としているが、自分たちの支配者の支配地域を中国の本来の領土としているのは、正当性からいうと全くナンセンスだ。
清の支配は300年に及んだが、その支配はどのようなものだったのか。清は満州族の国だ。満州人に対しては部族長会議の議長、モンゴル人に対してはハーン、漢人に対しては植民地の皇帝、東トルキスタン(新疆)のイスラム教徒に対してはその保護者、そしてチベットに対してはチベット仏教の最高施主(仏教の後援者)、ということで、五つの種族に対してそれぞれ別の関係を持っていたという(岡田英弘「歴史とはなにか」文春新書)。
そして、モンゴルも、チベットも完全な自治が認められていた。清朝発祥の地、満州には勿論のこと、モンゴル、新疆、チベットに漢人が居住することは認められていなかった。
これは重要なことだ。現中国が清の支配地域を中国の伝統的支配地域としているのは、全くの歴史の誤認だ。そしてチベットのみならず、内モンゴル、新疆ウイグル地区でそれぞれ状況は違うが、独立を求める内乱が続いている。
(続く)
虎ノ門戦略研究所理事長 関 肇
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