トップに戻る
時評・メルマガ書庫
論説・論文アーカイブス
安全保障早わかり2003年度版
推奨リンク集
日本を元気にするご意見募集中
研究所の概要

関肇への取材・講演依頼や、このHPについてのお問い合わせは虎ノ門戦略研究所まで
メルマガの登録・解除
虎ノ門戦略研究所
TEL03-3353-8161
 
■■■集団的自衛権行使の事例研究(その2/2)■■■
平成19年5月18日

前号 3. 憲法9条  (1) 第1項について  から続く;
 (2)  9条2項について
 第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」、としている。前項の目的とは「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ということで、そのための陸海空軍はその他の戦力は保持しないというのだから、国際紛争を解決する手段としてでなければ陸海空軍その他の戦力は保持できることとなる。
 この憲法案が米軍から示された時、芦田均(衆議院憲法改正案特別委員長)が「前項の目的を達するため」という文言を挿入したもので、芦田修正と呼ばれている。芦田氏はその後「日本の防衛力を奪う結果となることを憂慮した」から挿入したと述べている。そして日本側は米軍がこの修正を認めないのではないかと恐れたが、総司令部は意外に許容的態度をとった。しかし、その後の日本政府は芦田説を採用していない。
 「交戦権」とは国際法上の用語としては交戦国に認められる権利で、中立国の船舶の臨検・拿捕、占領地での敵国民や財産に対して一定の強制措置を取りうる権利などを指す。しかし国際法上の用語として内容が固まっておらず、日本国憲法成立直後の日本国憲法に関する国際法学会の検討では評判が悪かったところの一つだということだ。憲法原案を作成した米国人たちは専門家でもない20代も含む若い人達で、学問的素養も少なかったのだろう。これを賞揚したのは占領下で敗戦に迎合する日本の憲法学者、文化人、マスコミだけだった。
 交戦権の解釈について日本国内では国際法上の用語として解釈する外、更に広く国家が戦争をする権利とか、両者を含むとかの説がある。国際法上の用語以外の解釈は第1項との関係でおかしいと思うが、法解釈というより平和主義の立場からの主張だろう。集団的自衛権の行使が第2項により禁じられるというのは無理のある議論だ。

 (3)  集団的自衛権について
 集団的自衛権の概念は今日では国際慣習法上の権利として確立したものとされているが、伝統的国際法にはなかった。国連憲章成立の直前にラテン・アメリカ諸国の規約にこの概念があるそうだが、この概念は国連憲章により広く認められたといえる。国連憲章の成立は1945年(日本の加盟は、1956年)で日本国憲法の成立は1946年だから、日本国憲法を制定するにあたっては、国連憲章などは頭になかっただろう。
 日本が国連に加盟するにあたり何の制約条件も付けていない(それどころか、何とかして加盟したいとやっきになっていた。国連憲章上の重要な概念である集団的自衛権自衛権の行使はできないというのは国連憲章の一部を受け入れないとすることで、今更言えたことではないと思う)。また日本国との平和条約、新旧の日米安保条約、日ソの共同宣言などでは個別的および集団的自衛権の保持を確認している。
 集団的自衛権の法的性質については二つの説があるが、我が国がとる解釈は一国が武力攻撃を受けた時に自衛のための武力が不十分な場合に他国がこれを補完し援助するために行う措置であって、それは自国の実体的権利が侵害されるからではなく、平和・安全に関する一般的利益に基づくものであるという(山本草二 国際法)。そうであるなら、事例研究の4ケースについて集団的自衛権行使ができないから制約されているとするのは重箱の隅をつつく議論としても相当なものではなかろうか。

 (4)  自衛権の政府解釈
 20世紀初頭まで国際法上の自衛権は伝統的に各国の権利・利益に対する重大な侵害を排除するために取りうる正当な手段であるとされていた。国連憲章が成立して自衛権の行使は他国の武力攻撃に対抗する手段としてだけ許されることとなった。武力攻撃による法益侵害に限定したところに特徴がある。しかし自衛権の行使の内容は限定的ではない。
 政府の考える自衛権は個別的自衛権を含めて国際法上の自衛権をそのまま採用したものではない。国際法上の自衛権に国内法である刑法的制約を加えているのだ。現在の自衛権に関する政府見解が確立したのは鳩山内閣発足時までの間とされるが、自衛権発動の三要件として、(A) 我が国に対する急迫・不正の侵害があること、(B) 他に適当な手段がないこと、(C) 必要最小限の実力行使にとどめるべきこと、を挙げている。これは自衛権ではなく国内法の刑法学上の緊急行為とよばれるもの(正当防衛、緊急避難、自力救済)だ。敗戦の後遺症、軍部の独走や戦争に対する反省から来た法解釈なのだろう。日本人の精神が敗戦から回復していないのはここにもある。

 国内法上の自己防衛の権利と国際法上の自衛権は本来本質的に異なる。国際法と国内法は特に公権的強制力の有無、自力救済か公的救済か、その解釈は基本的には国家に委ねられていることなど基本的に異なっている。これを忘れて自衛権を論じても国際的に現実性のある議論にはならないし、我が国の利益を守れない。国内社会と異なり、自国の利益を守るのは自国によってだ。自衛権発動の三要件は刑法上ではなく国際法上の概念だと政府見解を改めるべきだ。そして自衛隊の行動を全て自衛権と関係させて解釈しようとするのは時代の変化に適応できないものだ。
 そもそも政府は自衛権に関して国際法上の自衛権とは異なる見解を取り得るのだろうか。国連憲章、その他の日本が締結した条約、宣言等で確認した自衛権は相手国との関係もあり国際法上の自衛権の筈だ。日本が日本にだけに適用される自衛権の解釈をしていることを相手国に了解させてはいない。

4. 事例研究の背景
 安倍総理は戦後からの脱却の一つとして、集団的自衛権の行使について積極的という。四つの事例研究の検討などと言わず、正面から国際法の解釈として国際的基準から行ってもらいたい。政府見解で集団的自衛権が行使できないとするのは憲法の前文を始めとする憲法の精神及び自衛権発動の三要件からのようだ。しかし特に三要件は憲法そのものに規定されているのではなく、憲法解釈からするものだ。解釈なら解釈により変更することは問題ないはずなのに、法制局の態度は妙に頑なだ。
 現在正々と議論を行うには、自民党内部には、反対派もいれば憲法改正で行うべきという人達もいる。憲法改正には時間がかかる。憲法改正によってという人は、引き伸ばしを望む人だとしか思えない。  また参院選もあって宗教団体等の観念的一国平和主義ムードへの心配もあるかもしれない。他方、米軍再編とそれに伴う日米協力が大きな日米間のテーマになっている時でもあって、とりあえず米国との関係で問題となることだけに絞って片付けようというのかもしれない。それはそれで理解できない訳ではないが。

 国内の裁判などに対する感覚からすれば法の解釈は思想的背景による判決など一見ないように見える。マックス・ウエーバー風に言えば没価値的である。しかし最近の裁判では明らかに裁判官の思想的立場によった妙な判決が出されることがある。米国では最高裁判事の任命権は大統領にあり、在任期間中は干渉できないから判事が共和党系の思想の持ち主か民主党系の思想の持ち主かで法案の違憲審査の状況が変わることになる。任命時期の大統領が共和党か民主党かは大きな問題となる。
 自衛隊に関する法の解釈は一見厳密な法の解釈と見えてもそうではなく、米軍が強制したギルティー・コンプレックスによる平和主義から来ているように思える。

 法の解釈は学説が多数あるように色々あり得る。成文法は時代と共に古くなる。今日のように変化の激しい時代、特に経済界では陳腐化が早い。だから法の文言を拡張して解釈したり縮小して解釈したりする。これだけでは新しく生じてくる法現象のすべてに対応することができないので類推という方法があるが、それは解釈ではなく創造だといわれる。これらは裁判所によるある種の法の創造だが、社会が自発的に法を創造してくることもあり、それが慣習法だ。国内法の商法は最近改正されたが、それまでこのような法解釈が広く行われて来たし、改正後もそのような部分は広くあろう。
 このように法解釈は現実の必要により変わるのは当然だ。何故憲法だけがそのように扱われないのか。憲法は基本法であってその安易な変更は法の不安定化をもたらすという反論が言われる。その面もあるが、問題の性質と取扱いにあろう。集団的自衛権行使など長く問題となって来たもので、解釈の変更が国内法の不安定化をもたらすという議論はためにする議論でしかない。政治的立場からの反対の理論づけだ。
 法制局長官は安倍総理の許で、憲法9条の解釈は過去の国会等における議論の積み重ねを経てきたものであり容易に変更はできず、憲法改正によるしかないと強く主張したとマスコミは書いている。その発言は法の解釈から来たというより、憲法学者宮沢俊義などの憲法教育に起因する思想的背景が(無意識にせよ)あるのではないか。

 政治家でも同じようなことを言う人がいる。この6月27日英国のブレア首相が辞任するというが、ブレア首相は労働党綱領から生産手段の国有化を削除し市場原理の活用による経済の活性化を主張して政権を取り、在任期間が10年を超えた人だ。生産手段の国有化を綱領から削除するなど労働党にとっては憲法の基本原理を改正したようなものだ。日本でも色々な方面で大きな変革が求められる今日、国会での議論の積み重ねに拘るような人が変革に対応できるのだろうか。
 また、集団的自衛権の行使を認めればどこまで何をするか際限がなくなるという議論もある。この議論は後藤田正晴氏を思い出させるが、政治の判断を信用せず法の規定により本来政治が決定すべきことを政治にさせないという議論だ。過去に大きな失敗があったとしても、日本人が日本の政治を信用しないでどうするのか。そんな発想では日本の発展はないだろう。それこそ民主主義の否定だ。戦後からの脱却は日本人の精神の独立だ。憲法9条問題はその大きな一つと思う。
(以上)

虎ノ門戦略研究所理事長   関 肇

時評・書庫へ戻る
      (前号を読む) 
トップにもどる

ウェブサイト利用規定(必ずお読み下さい)
Copyright Toranomon Strategic Think Tank.All Rights Reserved