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■■■集団的自衛権行使の事例研究(その1/2)■■■
平成19年5月17日

1. 事例研究
 政府は現憲法上、4つの個別的事例(すなわち4類型)について集団的自衛権の行使が可能かどうかを研究するため懇談会を設置すると発表した。4類型とは、(A) 米国(同盟国)を攻撃する弾道ミサイルを日本上空で日本のMDシステムで撃墜できるか、(B) 公海上、日本を守るため日本艦艇と並走する米国(友好国)艦船が攻撃された時に反撃できるか、(C) PKO活動の場合など支援活動を行なっている他国軍が攻撃された場合反撃できるか、(D) 同じくPKO活動などの場合戦闘地域で活動する他国軍を食料、燃料、弾薬などの後方支援ができるかの4つだ。ちなみに、現在(D) は武力行使一体化論でできないこととなっている。また、新聞によっては(D) として、PKO活動で自衛隊員が任務遂行上武器を使用できるか、が挙げられていた。これは集団的自衛権の問題ではないので事例に入れるのは間違いだろうが、憲法解釈としてはこれも問題の一つなので紹介した。
 いずれの場合も同盟国や友好国との関係を維持するため、また国際関係において責任ある独立国の行動として、集団的自衛権をできないとしている我が国の現状は異様というべきだ。しかし、この研究の立場に首を傾げる人がいるのではなかろうか。集団的自衛権の行使が可能かどうかは法をどう考えるかの問題だ。他方、4類型は具体的事例だ。法は原則だから、原則の行使が認められて初めて具体的事例が行使できるかどうかの議論があるべきだろう。ところが事例研究は具体的事例は集団的自衛権の行使に当たるとし、その個別的事例の場合なら憲法上認められるかどうかの検討だという。議論としては本末転倒のように見える。

2. 事例研究と個別的自衛権
 私は集団的自衛権を保有するが行使できないという政府の見解は法的にもおかしいし、国益を損なっていると思う。それは法解釈を装っているが、日本自身の手を縛っておきたいという戦後の政治意志の表れのように思える。百歩譲って現解釈を前提とするとしても、個別的自衛権などで認められるかどうかを4類型で検討する方が筋は通るのではなかろうか。

 まず(A) について考えよう。日本の核に対する安全は米国の核抑止力に100%依存している。日本の上空を通過する核ミサイルを日本が迎撃せず、米国が攻撃されたらその攻撃による米国の被害の程度がどうであれ、米国の日本に対する保障は損なわれるだろう。米国の核抑止が機能しなくなることは日本の安全が保障されなくなることだ。(A) は日本が直接攻撃されなくとも、日本の個別的自衛権の行使の対象となるとすべきではないのか。ただし、後述するように、政府の個別的自衛権行使の考えかたは国際法的ではなく国内刑法的なので、このような考え方は否定されている。

 次に(B) の場合だ。マスコミでは個別的自衛権の対象となるとの防衛省の見解があったと報道されている。日本を守るために自衛隊の艦艇と共に行動している友好国の艦船が攻撃されたら、日本への直接の攻撃と同じと考えるのに無理はないだろう。実際問題として、艦艇に対するミサイル攻撃などどちらの艦艇を目標としているのか分らない場合が多いという。だからこのような場合、どうであろうとミサイル攻撃に対しては反撃すべきだという考えもあろう。しかしこのように考えること自体、政治優先の原則が軽んじられているということだ。政治優先の原則をいくら強調しても、生存を賭して国家のために暴力を行使する軍事の実際から政治の考えがかけ離れていれば、軍事を担う者も人間である以上原則は無視される場合もあろう。それは国家にとって重要な政治優先の原則を政治自らが破ることと同じだ。

 (C) の場合はどうか。そもそもPKO活動は自衛権の発動として行っているのではない。憲法は9条1項で、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」としている。憲法ができた当時、戦争は国際法上宣戦布告されたものが戦争で、宣戦布告されないものは(例えば支那事変のように)事変などと呼ばれた。「武力の行使」とはこのような場合を指している。
 PKO活動は国権の発動たる戦争ではないし、自衛権の発動でもない。国際平和追求のためだ。したがってこれを個別的、集団的自衛権の問題として考えるのは間違っている。そもそもこれは憲法の予想していなかった事態でありながら、今日の国際社会で平和維持のため必要と判断されたものだ。そのほか憲法の予想しない事態は環境問題など色々ある。
 PKO部隊の武器の使用は憲法上の「武力の行使」とは別とするのが法の解釈として正当だ。PKO部隊の武器の使用は任務遂行上のもので、憲法が予想しなかった任務だが、憲法の求める平和追求のためのものだ。(C) の場合は共同で任務を遂行している他国との協力活動だ。任務遂行の必要として認めるべきだろう。これを集団的自衛権との関係で説明するのは法解釈の混乱を増大させるだけだ。

 最後に(D) の場合をどう考えるのか。後方支援は戦闘の支援であって外国部隊の「武力行使と一体化」するから支援できないというのが政府の説明である。一体化は戦闘との密接度で判断されるという解釈だ。しかしこれは相当無理な説明だ。現在インド洋で行っている燃料の支援は戦闘部隊に対する直接的な支援でないとしているが、これがなければ戦闘行動は継続できない。この燃料支援を可能としているのに、直接的な後方支援はできないとするのは無理だ。支援対象国との経済的交流は全て武力行使を助けることになるから断ち切るべきということになろう。法の解釈としては、「武力行使」は武力行使そのものだけを考えるべきで、後方支援をするかどうかは国際政治上の判断から行うべきだ。集団的自衛権との関係で論ずるのはおかしいのではないか。

3. 憲法9条
 (1) 第1項について
 9条第1項は1928年の不戦条約第一条を採用したもので、イタリア憲法等でも採用されており、日本憲法だけのものではない。世界でユニークなものだと主張する人もあるが、2項を加えたとしても誤りだ。共産党や朝日新聞は憲法9条があるから日本は戦争に巻き込まれなかったと宣伝しているが、日本が戦争に巻き込まれなかったのは戦後これまでの国際状況から来たもので、憲法9条とは関係ないのは明らかだ。共産党などの政治主張の欺瞞的表現の一例だが、ユニークという人も同じだろう。
 イタリア憲法は軍隊の保有とその行使について日本のような特別な制約を自らは課はしていない。また、不戦条約署名国各国の行動はその後米国をはじめ歴史の示す通りだ。不戦条約はその提案者の名をとりケロッグ(米国務長官)・ブリアン(仏外務大臣)条約とも呼ばれるが、この条約についてケロッグはアメリカ合衆国の解釈として、1928年、米国国際法学会で次のように講演している。
 「不戦条約の米国草案には、どのような形ででも自衛権を制限しまたは害する何物をも含んでいない。・・・すべての国はどのような時でも条約の規定の如何を問わず自国領域を攻撃または侵入から守る自由をもち、また事態が自衛のための戦争に訴えることを必要ならしめるか否かを決定する権限を有する。・・・条約の規定は自衛の自然権に制限を付加することはできないので、条約が自衛の法的概念を規定することは平和のためにならない・・・」と。
 これは自衛の概念は米国が決めるのであり、その権利の行使は条約によるものではないと言っている。要するに不戦条約があろうとなかろうと、米国の自衛権の解釈と行使は米国が決めるのだということだ。侵略といえる事態も自衛で説明できる訳だ。すなわち、条約は米国の政治的判断を制限することはできないとしているのだ。国際条約特に安全保障に関する条約とはどんなものかを示すもので、日本人は拳々服膺する必要があろう。

 この当時集団的自衛権の概念はなく、相互防衛のため兵力使用などは友好条約などの秘密規定などで定めていた。しかしそのような規定があろうとも現実に兵を派遣するかどうかは自国の利益から見た国際政治上の判断によるとするのは当たり前だ。第一次大戦で英国は日英同盟を根拠に日本軍のヨーロッパ派遣を求めたが、日本は陸軍の派遣は行わず、海軍を一部派遣しただけである。陸軍を派遣していれば日本陸軍も戦争の近代化の実態認識が深まり、大東亜戦争に対する姿勢も違っていたかもしれない。
(つづく)

虎ノ門戦略研究所理事長   関 肇

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