

■虎ノ門戦略研究所
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■■■国家の誇り■■■
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平成19年5月7日
平成19年4月11日から13日の間、温家宝中国首相が来日し、中国風俳句を披露したり、ジョッギングや学生との野球をしたりして愛嬌を振りまいて行った。氷をとかす旅と称しても、歴史認識や東支那海の油田開発など政治的懸案は日本の主張を無視し、理不尽で一方的な立場を変えることはなかった。中国にとっての戦略的互恵とは日本が中国に従うことのようだ。
中国は政治腐敗や極端な貧富の格差、農民の暴動の全国的頻発など社会の混迷度は広がっている。経済は急激に発展しているが金融機関の抱える不良債権はいつ問題となるかわからないし、環境破壊やエネルギー問題も深刻化している。中国内政が安定するには日本の資金や技術の協力なしには困難な状況だ。温家宝首相の来日は友好のためではなく、日本の協力という実利を求めてのものだ。もともと歴史認識も反日も共産党政権が内政上の必要から作り出したもので、それを日本が受け入れてしまったから現在でも中国内政上の大きな問題となって残っているのだ。このような実情を日本の政治家は認識しているのか。
それにしても温家宝に対する多くの日本政治家の無節操ぶりはどうだ。マスコミによると国会演説では温和な口調ながら歴史問題などによる日本批判に大きな時間を割き、安倍首相の靖国参拝を牽制した。更に異例なことに演説原稿を配布せず、日本の平和の歩みを評価する部分は読み飛ばした。そのような演説を前にして国会議員は低姿勢そのもの、野次も飛ばさずに傾聴し、随所で拍手を送り、立ち上がって拍手する者さえいたという。「村山談話を実際の行動で示すことを希望する」と述べた際にも拍手喝采だった。この演説に対して多くの与野党の指導者は対日重視が伝わる歴史的な演説だといった評価をしている。国会演説は中国にも中継されたということだが、どんな皮肉にも拍手を送る国会議員の熱烈歓迎ぶりには中国の人々もさぞ驚いたことだろうと、わが国のマスコミさえ嘲笑している。温首相は宿泊先のホテルで国民新党を除く与野党幹部の表敬訪問に順に応じた。幹部連は国会演説は素晴しかった、感激したと褒めあげるだけだった。国会議員達は日本国家の誇りを持たないのだろうか。
このあおりをうけて、安倍首相は慰安婦問題について河野談話を踏襲すると言わざるを得なくなった。訪米を前にして混乱を防ぐためには止むを得ないのだろう。米下院外交委員会に韓国系米人を支持母体に持つマイク・ホンダ議員が提出した日本非難決議案に端を発するものだが、安倍首相はマスコミの質問を軽くいなすべきだった。このような決議案は日本の国会の場合と違い、単に議員がある問題について述べる意見にすぎないものであり、決議案が成立しても新しい法律ができるわけでもなく何も起こらないし、米国人の多くもこのようなシステムがあること知らないという(ジェームス・アワー 産経 正論)。また、ブッシュ大統領をはじめも米国人の多くやマスコミは戦前の日本は軍国主義の専制国家であり、米国によって民主化されたと思い込んでいる。戦争中の日本が軍国主義的であったのは否定しないが、日本は大正民主主義の時代もあったし、更にそれ以前に米国と違って軍国主義などで分類できない長い歴史があることは忘れられている。
日本の政治家は国内選挙などはよく知っているが対外音痴が多い。特に河野談話の誤りは日本の誇りに関する問題として、安倍首相は以前から修正したいとしていたのだから、このような決議の性格や米国人の対日観について、マスコミに対し適切な対応ができるよう外務省が首相に説明しなかったのは大変な怠慢といえよう。敏感な問題であることをわきまえて説明できるのは外務省しかない筈だ。
河野談話については真実の発表と共に談話の作成者が責任を取るほかないことは前稿「慰安婦問題の責任」で述べた通りだが、ここにも国家を代表して行動する人達が韓国との目先の妥協だけを考え、国家に対する誇りを持たないことが根本にある。武士は個人または自分の家として、藩に対しても、国家に対しても誇りを持つことが基本的矜持だった筈だが、今日の日本では武士の気概は全く失われてしまったのだろう。国を代表して働く公人に誇りなくして、どうして国家に誇りがあると言えようか。誇りのない国家は植民地と同じだ。しからば、国家の誇りとは何か。
国家の誇りはただ一つ、誇りがあるかないかだ。しかし、それを今日理念として正そうとしても困難だろう。戦後、国家という概念自体を否定しようとする考えが横行してきた。国家を代表する者が国の代表という感覚を持つことから始まり、代表するとは何なのか、それを具体的イメージとして持つにはどうすれば良いのか。
それには、あらためて日本の原点に返るほかはない。それは彼等が天皇の代理として働いているとの自覚を持つ外はないのではないか。天皇の名を辱しめてはならないとの意識を持つことだけが、彼等に国家の誇りを持たせるのではなかろうか。
基本的に革命を考える共産主義者や社会主義者を除けば、通常の日本人は今日でも意識の下で天皇にそれだけの重みを感じていると思う。かつて、「もはや戦後ではない」という言葉が流行ったがそれは経済だけであり、日本人の精神は占領され洗脳されたままであり、まだ戦後は終わっていない。国家に誇りを持たないこともその一つだが、それではグローバル時代を独立国として生きぬくことを困難にする。国会議員や国家公務員ら公人たちの行動を見ると今や危機的状況だ。
それを回復するには憲法改正で天皇が元首であることを改めて明確にすることだ。私が習った頃の現憲法の解釈では、東大系の憲法、国際法の学者は天皇が元首であることを否定し、京大系の学者は元首であるとしてきた。今日でも同じだろう。憲法革命説では元首否定となる。公人となる人にとって、それでは憲法学習の過程で天皇が元首であることの重みは分らない。憲法上天皇を明確に元首として示し、公人は大なり小なり国家を代表しているのだから、抽象的ではなく、天皇の名代として働くこととの自覚を持たせるのだ。それにより個人を離れて歴史的、共同体的なものを代表するとの自覚を持てるのではなかろうか。(そして、マスコミ等において敬語の使用を教えなければならない。)
戦後の学者には戦前の帝国憲法はドイツの君主専制的憲法を真似たという人いるが、これは歴史を知らない浅薄な間違いだ。伊藤博文をはじめ当時の憲法起草者達が欧米の学者に熱心に教えを請うたことは事実だ。伊藤博文の下で原案作成に当たった井上毅は、ヨーロッパ留学の経験もあり西欧法学の知識の持ち主だった。彼が太政官時代に試作した憲法草案はドイツ法学の立場だったという。しかし、その後日本の歴史的国法を重視することの必要に気づき、更に常識的な日本法制史の知識では満足できず、日本の国史古典について多くの専門国学者と交わって日本の国史を通じて流れる固有法の思想について熱心な研究を行うこととなった。
伊藤博文をはじめ当時最も多くの日本人憲法研究者が訪問したウィーン大学教授スタインは訪れた日本人達に、国法はその国の歴史的社会的所産であり、その国の伝統的な宗教とか風俗文化が大切にされなければならないことを説いている。また、個人の信仰の自由とは別に国教を定めることの必要を強調している。なおスタインは当時の日本で歴史教育が振るわないことを憂い、歴史教育の必要を強調している。このような考えは多くの欧法学者達の説でもあった。
井上毅は国典研究により、日本の帝国憲法はドイツやイギリスなどの憲法の写しではなく、「皇祖皇宗の不文憲法」の近代的発展でなければならぬとの強い信念を持つようになった。その原案では、「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス(しらす)所ナリ」となっていた。彼は、天皇と日本国との関係は「しらす」という関係にあって、外国の権力支配とは全く異なると確信した。「しらす」は、「しる」の敬語であり、神意と民の意思を根底的に知るということだ。更に、知るとは「同一化する」というほどの意味にも通ずる。国と国民の意思を根底的に知り、その繁栄を神々に祈るということが天皇統治の基本ということである。天皇統治は「しらす」であり「うしはく」ではないという。「うしはく」は領有を意味し、権力政治を行うことという。井上はこの「しらす」の古語を外国語に訳しがたい貴重な語として第一条に明記することを固執した。しかし、西欧的法文の体をなさないということで伊藤の同意するところとはならず、結局「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とされた。しかし伊藤の注釈書「憲法義解」では「統治」とは、「しらす」の語義であるとの説を入れている。(以上、明治神宮編 「大日本帝国憲法制定史」、石田圭介
「近代日本政治思想小史」 翔雲社 より)
帝国憲法では輔弼の任にある大臣が提案し、或いは閣議で決定されたものには、天皇は内心はいかがあろうと裁可された。昭和天皇は大東亜戦争には強い反対のお気持ちを持たれていたが、閣議で決定された戦争突入は裁可された。これは帝国憲法がイギリス流の君臨すれども統治せずとの立憲君主制に立つからだというのが一般の見解だ。しかしこれは上記の帝国憲法起案者の井上毅の見解からすると極めて皮相なことが分かるだろう。今日の憲法は天皇と国民との関係をさらに離そうとしたものだが、完全に断ち切ることは占領軍の強権をもってしてもできなかった。そんなことをすれば占領軍の平和的日本統治はひっくり返っただろうからだ。
現憲法は天皇と祭祀の関係など日本の伝統を逸脱したところが多い。憲法改正ではこの点が最も重要な筈だが、その意見が今日通るとは思えない。井上が行ったような日本の国史を通ずる法思想を研究するなど、今日の憲法改正論議では考えの俎上に上ることもないだろう。
しかし、占領軍が憲法改正が手続き的に困難なように仕組んだ大変な硬性憲法を改正することだけでも大切だ。天皇のお立場については、少なくとも元首とすることは今日反対は少ないだろう。そしてそれは今日の誇りを失った公人の言動がもたらす国家の危険を防ぐことになるのだ。
(以上)
虎ノ門戦略研究所理事長 関 肇
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