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■■■東京地裁 国旗・国歌通達違憲判決■■■
平成18年10月26日

1. 東京地裁の呆れた判決
 9月21日、東京地裁は驚くべき判決を下した。平成11年に国旗・国歌法が成立し、平成15年には東京都教育委員会は入学式や卒業式で教職員が校長の職務命令に従わず、国旗の掲揚と国歌の斉唱が適正に行なわれない場合には服務上の責任を問う旨の通達を出した。そして通達に違反した教職員には違反の回数に応じた重さの処分がなされてきた。これに対して都立高校の教職員ら401人が都と都教委を相手取って、通達に従う義務がないことの確認や損害賠償を求める訴訟を起こしていた。この訴訟において東京地裁は通達は違憲、との判決を下したのだ。

 マスコの判決要旨を見ると、一番問題となる所は「日の丸、君が代は明治時代以降第二次大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあるのは否定しがたい歴史的事実であり・・・現在においてもなお国民の間で宗教的、政治的にみて日の丸、君が代が価値中立的なものと認められるまでには至っていない状況にある。このため入学式などで国旗掲揚、国歌斉唱をすることに反対するものも少なからずおり、このような世界観、主義、主張を持つ者の思想・良心の自由も他者の権利を侵害するなどの公共の福祉に反しない限り憲法上保護に値するというべきである。従って、教職員に対し一律に式典で国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することなどの義務を課すことは思想・良心の自由に対する制約になるものと解するのが相当である」、というところだ。
 更に、この判決は反対の教職員に対して国旗掲揚、国歌斉唱等をさせることは少数の思想、良心の自由の侵害であるとする一方、生徒に対しては「日本人としての自覚を養い国を愛する心を育てるとともに、将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長させるために国旗、国家に対する正しい認識を持たせ、それらを尊重する態度を育てることは重要である」とし、入学式等において国旗を掲げ国歌を斉唱させることは有意義としているのだ。

2. 判決の誤りと矛盾
 国旗、国歌は国家のシンボルだ。戦争など国家が危機的状況にある時は国旗、国歌が国のシンボルとして、その意義が強調されるのは当然だ。皇国思想や軍国主義思想は国家の在り方に関する主張だが、判決の言うように国旗、国歌そのものを精神的支柱としていたとは思えない。しかし、仮にそうであったとしても国旗、国歌はそれだけのものだったのではない。そのような主義に同調しない人々にも国家のシンボルとして大切にされてきた。現在の日本と同じように、例えば、オリンピックで入賞した時などに掲揚、吹奏されてきた。皇国思想や軍国主義思想とのみ結び付けて論じるのは認識不足だろう。
 なお、昭和になって日本で皇国思想や軍国主義思想が国民の間で強まって行くのは欧米帝国主義勢力が新興帝国主義勢力の日本を圧迫し、日本政府は長年に亘ってそれに効果的対応ができなかったからだと思っている。ABCD包囲網という言葉などある年齢の人にはまだ記憶にあろう。

 そもそも価値中立とはどういうことか。マックスウエーバーに没価値性という言葉があるが、学問の世界では色々な宗教や思想を検討する場合に、一つの立場に囚われないとするのは価値中立だろう。では、この判決にいう価値中立とは何を意味するのか。
 国家が学問の場合のように思想的に一つの立場に囚われないというのはありえない。いかなる国家も一つの理念の下に成り立っている。米国は米国流の自由と民主主義を離れてはありえない。共産主義国は共産主義の理念で成り立っている。国民の権利と義務は国家により定められており、国民が人間として保護されているのは、国家が保護しているからだ。思想、表現の自由は国家が認めているからである。反対にそれを認めない中国、北朝鮮などを見ればそのことは明らかだろう。日本の国家は、中国や北朝鮮のように国民を弾圧する国家のあり方に対して価値中立ではない筈だ。判決は司法権の発動だから日本の現法令に従っている筈であり、日本の法令は憲法で示される法的価値に従っているのだから価値中立ななどという発想が出てくるのはおかしい。

 表現の自由との関係でいうと、思想、良心の自由とその表現の自由とは別のもので、表現は職業により程度の制約があるのは当然だ。国公立の学校で憲法上宗教教育が禁じられているのは一つの例だ。あくまでも国旗、国歌に反対の態度を示したければ、職業選択の自由があるのだから国公立学校の教職員であることを止めればよい。表現の自由は価値中立とは別の問題だ。英国国歌は、ゴッド・セイブ・ザ・クイーンだが、このゴッドは英国国教会のキリスト教のゴッドではあっても、カトリックでもプロテスタントでもない。ましてイスラムや仏教ではない。しかし英国人は思想、心情がどうであろうと、英国人として振舞うときにはユニオン・ジャックに頭を下げ、この国歌を歌うのだ。それは表現の自由とは矛盾しない。

 判決の価値中立が精神的価値が無くなることを意味するなら、国家の象徴としての意味がなくなる。外国で国家が歌われるのを聞いて涙が流れたと言う人がいるが、精神的価値のないものに涙は出てこない。或いは国民の大多数が思想上認めればよいということなのか。多数が認めれば良いとするのは個人の良心を無視する発想ではないか。一部教職員の国旗、国歌反対は伝統と権威の否定、現在の国家体制を否定する革命思想がその前提にある。彼らがそのような思想を持つことは自由だが、公教育の場でその主張、宣伝に類することを認めるのは恐るべき逸脱だ。

 更にこの判決は内容が矛盾している。教職員に対しては起立、斉唱を無視してよいとすることは、その教職員が生徒に対して国旗掲揚、国家斉唱は勝手に無視してよい程度のものでしかないと態度で示すことを認めることだ。判決が生徒に対して「日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てる・・・・国旗、国歌に対する正しい認識を持たせ、それを尊重する態度を育てることは重要・・・」と述べていることとは明らかに矛盾している。判決の実質的内容は、生徒が国旗、国歌を否定するよう示唆していると言われても仕方がない内容だ。この判決は法に従っているようで、実は反対の思想を広めるもののように見える。

3. 憲法教育における思想教育
 今の日本の基本的問題は内政政策、外交政策共に、表面ではそうは見えなくとも伝統的日本を大切にするか、或いはそれを基本的に否定するかの考えの対決にある。伝統的日本を大切にするとは過去を全面的に賛美することではない。私などは、特に敗戦までの昭和の政治指導者はどうしようもない失敗を繰り返してきたと思っている。しかし、それは将来を考えるための反省としてであって、彼らを善悪で見ようなどとは思わない。伝統を否定しようとする者は極東裁判史観に囚われた人々で、戦前の日本は道徳的に悪かったと信じている。将来の政策は現在の理想に基づくべきだろうが、歴史上の問題を道徳的立場で判断するのは全く間違っていると思う。それは人類の歴史を知らないのと同じだ。

さて、この判決は思想・良心の自由の侵害として公立教職員の国旗掲揚、国家斉唱妨害を認めている。思想・良心の自由とその表現の自由とは別のものということは既に述べたが、何故裁判官が思想・良心の自由をそこまで強調するのか。裁判官は一般的に良識的と考えられていると思うが、この裁判官の判断はちょっと行き過ぎではないか。この判決は判決理由があまりにおかしいから再審で覆ると思うが、これのような判断はこの裁判官だけのものだろうか。私はこの裁判官だけでなく憲法を学んだ公務員の多くは、この裁判官に近い心情を持っているように思う。内閣法制局の憲法9条判断も同じだ。
 そこには戦後一貫する憲法教育があるように思われる。わが国の多くの若者は無思想と言われる。大学紛争の時代でも、極左の連中は一部で、それに扇動された一般の学生は無思想だったろう。中学、高校までは、特別の環境にいる人以外は、思想的な主張に触れることは少ない。戦前の高校の方がマルクス主義思想の浸透があったように思える。受験勉強も時間の余裕を許さない。他方、大学の教育は学問の教育であって、思想教育とは考えられていない。マルクス経済学を教えても、一般には思想教育とはいえないと思う。

 しかし、東大などにおける憲法教育は明確な思想教育だ。例えば、宮沢俊義元教授の憲法学について見よう。宮沢教授の憲法学の教科書は司法試験、公務員試験などで多く使われたし、それを使った人達の間では大権威とされていた。文章が整理され、分かり易かったことも尊敬された原因だろう。憲法の解釈も法の解釈だから色々の解釈がありうる筈だが、その後の解釈も宮沢流から抜け出していないようだ。
 宮沢憲法学の特徴は戦前との繋がりの否定、伝統否定にある。現憲法の成立については帝国憲法73条の改定手続きに従い、議会の議決に従って行われた事実によって、定刻憲法からの改定という説がある。また改定はポツダム宣言に違反しているという無効説もある。これに対して宮沢説は革命説だ。日本の降伏により帝国憲法が容認しない変革がもたらされたのだから、法律学的には革命的性格を有するものと考えらなくてはならない、とする説である。帝国憲法が容認しない改正とは、統治権の総覧者としての天皇の立場である。帝国憲法73条の改正手続きによればどのような改正も憲法上可能とする説もあったが、通説は限定的だった。

 革命とは過去との断絶が重要な点だ。保守の改革は伝統を尊重しつつ改めるべきものは改めるという立場だ。その中心となるのは天皇制をどうみるのかである。敗戦時の日本の為政者は天皇制の維持のために全力を尽くした。それが国体の護持だ。今の日本も天皇制は維持されており、憲法には欠陥があるものの、国民と天皇の関係の基本は同じと思う。現憲法により多くのことが変わった。しかし戦前もその前も、日本のあり方も日本人も本質は変わっていないと私は思う。しかし、宮沢教授の説では日本のあり方は変わらなければならないのだ。例えば、宮沢説では天皇の意味が違う。例えば、宮沢説は天皇は元首ではないとしている(京大教授には元首としている人もいる)。前にも書いたように天皇は(稲を用いて)国家、国民を発展させよという神勅に基づき、国を治める立場におられる。歴史的に天皇と国民の間には、宮沢説が主張するような西欧の国王と貴族や市民との間の支配、被支配の権力的緊張関係はなかった。したがって、国王と人民の間の主権関係は西欧とは違う。宮沢教授のように、(王権神授説に対抗する)天賦人権説を持ち出して主権関係を論ずるのはおかしい。憲法解釈についての細かい議論はしないが、解釈は論理によるように見えても、結局その背後にはその人の思想がある。人間は思想に合うよう解釈をするものだ。また、宮沢教授はいう。天賦人権説(或いは、天賦というと神が表に出て具合が悪いので考えられたと思われるグロチウスの自然法説)に基づいて個人の尊厳を絶対視し、従って基本的人権を尊重するのだと。

 個人の尊厳や基本的人権は私も大切と思う。しかし先にも述べたようにそれを保障しているのは国家である。全体主義的発想には反対だが、個人の尊厳を主張するあまり国家や伝統を否定するのは秩序を否定し、革命によりその先を目指す手段でしかない。基本的人権は帝国憲法でも保障されていた。ただ法律の定めるところによりという法律の留保を伴っていた。行政権による制約は禁じられていたが、立法権による制約は認められていた。私は多くの場合その方が良いように思える。個人の尊重の行きすぎの一つが、ゆとり教育となり児童の放任となって弊害が問題となっているのも最近の話だ。
 この基本的人権は自由権の尊重から始まるものであり、憲法19条は「思想、良心の自由はこれを侵してはならない」、としている。同時に憲法は他の条項で「公共の福祉に反しない限り」との制約も示している。思想、良心の自由は大切だが、それを表現することには制約があるのは度々述べたとおりだ。それを判決が逸脱したのは、個人の尊厳をあまりに強調する宮沢憲法学の影響のように思われる。それは国家をできるだけ弱体化させる発想だ。関心のある方は宮沢憲法学のどの教科書でもよいから読んでみられるとよい。このような考え方が多くの法律を扱う人々の心に今でも深い影響を与えているように思えるし、日本の前途はまだまだであると悲観的になる。
 なお、このような自由権の尊重を規定する憲法を日本に押し付けた占領軍は占領期間中、検閲や指令によって自由権を無視し続けた。それは憎むべきだが、怒ってみるより敗戦とはそのようなものであることを認識する方が重要だ。
(以上)

虎ノ門戦略研究所理事長   関 肇

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